住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に大好きだったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「『天使のウィンク』(’85年)には聖子ちゃん節ともいえる、しゃくりあげるような歌い方など“らしさ”がすごく詰め込まれています。でも一方で、レコードジャケットの写真は、ショートカットにしたモードな雰囲気の聖子ちゃん。それまでのアイドルの王道から、ちょっとした“変化”もあったんです。だからこそ、男の子から女の子へ変わりたいという私の心にピタッとハマったんじゃないかと思っています」

こう語るのは、タレントのはるな愛さん(49)。幼いころからアイドルが大好きで、夢そのものだったという。

「小学校に入学したころはピンク・レディーがはやっていて、まねっこするときは、本名の『大西賢示』と似ているケイちゃん役。

近所のカラオケ大会で『サウスポー』(’78年)を、ピンクのランニングシャツを着て、長靴にアルミホイルを巻いて歌ったのですが、踊っている途中でボロボロになってしまって……(笑)」

家の中でも、アイドルのように振る舞って遊んでいた。

「お母さんの洋服ダンスからワンピースを3~4着出し、それを持って『ザ・ベストテン』をやっていたTBSに見立てたこたつのある部屋に入りながら、『おはようございまーす。あー忙しい。あんまり寝ていないんです~』って。『明星』などに載っていたアイドルの密着記事を参考に、なりきっていました」

きらびやかな服やアクセサリーにも興味津々。

「ストリッパーをしていた父方のおばの楽屋に行くと、オーストリッチの羽根のついたドレスや、大ぶりなイヤリング、お化粧品など、女の子になれるものがたくさんあって、わくわくするんですね」

■母親は「いじめられるから、男の子っぽくしなさい」と……

そんな姿を見て、いつも怒っていたのが父親だ。

「『お前、男やろ!』って、バチーンって顔をたたかれたりして……。“なんで自分を隠さなくちゃいけないんだろう”“自分らしく生きたいのに”っていう悩みを、ずっと抱いていました」

歌好きの父親だったので歌手になる夢は応援してくれたが、歌わせたかったのは男性の演歌。

西川きよしさんが司会をしていた『素人名人会』(’55~’02年・毎日放送)に出場したときも、グレーのスーツ姿で五木ひろしさんの『長良川艶歌』(’84年)を歌いました。フリフリの衣装を着て出ている女の子が、すっごく羨ましかったです」

そんなはるなさんに、母親も「いじめられるから、男の子っぽくしなさい」と釘を刺したがーー。

「足を引っ掛けられたり、掃除用具入れに閉じ込められてひっくり返されたり、中学では壮絶にいじめられました。本当につらかったけど、キラキラしたアイドルをテレビで見る時間だけは別世界にいられて、現実が忘れられたんです」

一方で、体毛が濃くなり、声変わりもしてくる。

心と体のバランスが崩れ、行き着く未来が見えない不安を抱えていたとき、ものまね番組に出演する機会を得た。

「せっかくだから、女性アイドルになろうと。それで松田聖子さんの『天使のウィンク』を歌うことにしたんです。スタイリストさんと一緒に原宿のラフォーレに行って、パンツスーツを用意してもらい、メークもばっちりして。なりたい自分になれたことが、大きな自信につながったんでしょうね。学校でのいじめも徐々におさまったんです」

■聖子さんがかけてくれた、まさかの言葉

歌自慢の子どもが出場する番組のために、東京に行く機会も多かったこの時期、はるなさんは同行した祖母と一緒に、聖子の住まいを訪れたことがある。

「遠くで見るだけのつもりだったんですが、たまたま配達があって、家の人が出てきたんです」

思わず祖母が「孫がひと目、松田聖子さんに会いたくて、大阪から出てきたんです」と声をかけると、「ちょっと待ってください」と言われ、しばらくすると女性が。

「それが聖子さんのお母様の一子さんで『よかったら、中へ入ってください』とリビングに通してくれて、オレンジジュースまで出してくれたんです」

はるなさんが聖子のものまねをしている話にも、耳を傾けてくれたという。

「『ごめんね。昨日は雨でドラマの撮影が中止になったから、家にいたんだけど……』とのことで、あいにくその日、聖子さんはいらっしゃらなかったんですが、数年後、はるな愛になって、コンサートの楽屋にお邪魔したとき、聖子さんが『男の子のときに、家に来てくれたんだよね』って!」

’89年、17歳のときに、念願のレコードデビューを果たしたはるなさん。

「両親が何百万円か用意してくれて、自費で『チャンス』という曲をリリースしました。衣装は聖子さんの『Strawberry Time』(’87年)のときのものをモチーフに。

できれば『大西賢示』という男らしい名前も変えたかったんですが、父の反対もあり、『大西ケンジ』としました」

当時、うめだ花月で、コントのつなぎ目の歌のコーナー「ポケットミュージカルス」に出演していた縁で、応援してくれた人も。

「イベントのときは吉本の芸人さんが来て、たくさんレコードを買ってくれました。近所のダイエーにも自分で『ものまねでテレビにも出ています』と売り込んでステージをやらせてもらったり。でも、実家の押入れには大量の在庫がありました(笑)」

下積み時代を経て、’90年代の半ばになると、少しずつテレビの仕事が増えていき、’07年にものまね芸“エアあやや”でブレーク。

「テレビでアイドルを見られたから、女の子になりたいという悩み、いじめに苦しんだ現実を乗り越え、夢をかなえるモチベーションが持てました。だから私はテレビに出るとき“悩んだり落ち込んでいる人が笑顔で元気になれるようにしよう”って、心がけているんです」