「ほな、これ被ってなぁ」
舞台の本番を前に、劇団員の女性がこう言いながら、日本髪のカツラを、おじいちゃんの頭に被せている。今日の彼の役どころは、明治時代の居酒屋の女将(おかみ)だ。
「おー、バッチリやん、かわいい、かわいい!」
そう言われたおじいちゃんも、まんざらでもない様子。やわらかな笑みを浮かべて「あ~ら、そう?」と小首をかしげ、台本を持つ手でしなを作ってみせている。
ここは大阪・西成。「あいりん地区」とも「釜ヶ崎」とも呼ばれ、かつては、日本の高度経済成長を支える労働者の町だった。しかし、彼らも一様に年をとり、いつしか多くの高齢者が暮らす、福祉の町になった。
そんな西成で、独居の高齢者たちが中心となって活動しているのが「紙芝居劇むすび」だ。一般的な紙芝居と違い、複数の演者がそれぞれの役に扮してセリフを朗読するユニークな手作りの紙芝居で、福祉施設や保育所などで定期的に公演を打つ。町のイベントにも欠かせない存在で、この日も、とある高齢者施設での公演だった。
むすびに3年前に参加し瞬く間に“看板女優”となったのが、先述の女将役を演じていた御年92歳のおじいちゃん・長谷忠さんだ。
「僕がな、女性の役を演るのは、性に合ってるのよ」 じつは、長谷さんは同性愛者だ。物心つくころには、男性として生まれた自分の体に違和感を覚えていた。初めて好きになった人は、小学校の男性教諭だった。
「僕はな、中途半端なんや。男は男だけど、男になれない。半分男で半分女、そういう生活をひとりで、ずっとひとりでしてきたのよ」
本人の言葉は少し寂しげに聞こえるが、少なくとも現在の長谷さんは、寂しくもないし、孤独でもない。
長谷さんと、むすびとの出会いは3年前、18年の夏だった。
「当時住んどった東大阪に、むすびが紙芝居劇をやりに来たのよ。見たらな、5~6人が役柄決めて演っていて。『ちょっと変わった紙芝居やな』と。しかも、けっこうな年の人らが、文句言い合いながらも、何に縛られることもなく、何やらとっても楽しそうで。あぁ、これやったら、僕もいけるん違うか、そう思ったのよ」
自分も参加したい、という思いが募った。ここならありのままの自分をさらけ出せるのではないか、そう思えたのだ。
その日のことをむすびのメンバー・ハルさん(71)は鮮明に覚えていた。
「終演直後、客席にいた長谷さんが前に出てきはって。
89歳のカミングアウトだった。
長谷さんは噛みしめるように、でも心なしかうれしそうにこう、つぶやいた。
「僕にはむすびしか、あらへん。ここが僕の生きる場所や」
■父には別に本妻がいた。小学校を卒業後、戦時下の満州に。帰国後は職を転々とした
長谷さんは1929年、香川県川東村(現・高松市)で生まれた。
「父親は村の医者で、地主やった。そんで、母親は元看護婦見習い。年が20歳ぐらい離れとった。父親が『お、若い看護婦が来た』言うて、お妾さんにしよったわけや」
そう、長谷さんの父には、母とは別に本妻がいたのだ。
「そやから僕はね、父親とはほとんど会うたことないの。
笑顔でサラリと話す長谷さんだが、出生時の環境は、その後の彼の人生に濃い影を落としていく。
「僕ね、小学校しか卒業してないの。なんでか言うたらね、学校の先生が口を滑らしたんはね、『お前は私生児やから試験受けてもきっと受からんやろ』って。実際、先生の言ったとおり、あかんかった。だから僕は小学校6年間でおしまい。中学校も高校も行ってへんの」
小学校卒業後、「満洲電信電話」に就職した長谷さんは、1年間の訓練所生活を経て43年、戦時下の満州(現・中国東北部)に。14歳の春だった。
「当時の満州は、僕みたいな若いの、多かった。僕は訓練所で電気通信、トンツートンツーの技術を身につけたから、新京の中央電報局で働いた。満州はええとこやったよ。
ところが、戦況は徐々に悪化。そして、45年8月15日――。
「日本が負けて、周りには泣きだす人や項垂れる人もおったけど、僕は別にショックではなかった。当たり前やな、そう思ってた」
後年、長谷さんは自らの生い立ちを私小説という形で出版。そこには、その日のことがこう記されている。
《あたしは踊り上がって喜んだ(中略)満州の空の下、こんなにうれしいときがくるなんて、死なないですむときがくるなんて……》
戦後、進駐したソ連(当時)軍の使役仕事などをして現地で生きながらえた長谷さんは、終戦から1年余の46年9月、やっとの思いで帰国を果たした。当初こそ故郷・香川県で暮らした長谷さんだが、20歳を迎えるころには、大阪・東大阪に移り住む。
「仕事はいろいろやったよ。電信局に勤めたこともあったんやけど、長続きせんかった」
長谷さんはその後、倉庫作業員や清掃員など、11もの仕事を転々としたという。
「もう、どんな仕事に就いとったか全部は覚えてないわ。替わりに替わったからね。転職を繰り返した理由? それはやっぱり、学歴がないから。
■同性愛者であることを誰にも打ち明けられず、ひとりで生きてきた
長谷さんは、少年のころには、自分が同性愛者だと気づいていた。
「前に言ったように家に父親はいなかったからね。家にいたのは母親、母方の祖母、それに当時は姉がいた。しばらくたったら妹も。とにかく女ばっかりの家で育ったの。さらに近所には叔母もいて、その家には年の近い従姉妹が2人いて。よう、その従姉妹たちと、お嫁さんごっこをして遊んだ」
初恋は小学生のころだ。
「同級生? あかんあかん(笑)。僕の好きになる男っていうのは、父親がいなかったせいか知らんけどね、年のいった男、年配の男なのよ。若い男と比べて頼りになるし。
しかし、当時は「同性愛=病気」と思われていた時代。友人はもちろん、家族にも、誰にも打ち明けることはできなかった。
「言えなかったね、それに言う必要もなかった。ばかにされるの、わかりきっとったから」
その後の満州でも、帰国後の仕事場でも、思いを寄せる男性はいたが、その思いのすべてを心に秘めて過ごしてきた。
「恋愛はしたよ。心のなかでは好きになった人はおった。でも、あんまり言うたことないわ。言う値打ち、ないやろ。だから僕はセックスしたことない。童貞や」
無論、独身を通してきた。恋人はおろか、心を許せる友人を作ることもなかった。仕事を転々と替えた理由の1つも、職場の仲間に嘘で塗り固めた身の上話をすることが、どんどんつらくなるからだ。
「『あんた、そろそろ結婚せな、あかんで』って、かなり年がいくまでは言うてもろうたこともあったけどな。いちいち窮(かわ)しとった。そら、いまやったら『僕、そっちのほうやねん』とか言えるけど。ま、もうこの年やから、そんなん聞かれることもないけど(笑)」
自分が近くにいることで迷惑をかけたくない、と家族とも次第に疎遠になった。
「母親が死んで、それからきょうだいたちも結婚してしもうたわけ。もし僕が世帯を持っとったりしたら、そら行き来もするかもしらんし、年賀状ぐらい出すかもしらん。だけど、僕はひとりやし、あっちは家族もあるし。だからもう、ぜんぜん会うてへんねん」
ここで、長谷さんはもう一度「だからね、僕はずっとひとりで生きてきたのよ」と、少しだけ寂しげにつぶやいた。
「ずっとひとりという僕の生活は、ほかの人から見たら、寂しそうに見えるかもしらんけどね、僕には生きがいがあったからね、寂しくなかったのよ」
生きがい、それは詩。小学生のときも国語が得意だった。10代のころから詩を書き始め、大阪に移ってきて以降、本格的に詩作にふけるように。30代を迎えるころには、詩の専門誌に投稿も開始した。
そして63年、現代詩の新人賞としてはもっとも歴史ある「現代詩手帖賞」受賞を果たす。翌年には処女詩集『母系家族』出版も。
「僕、東京にいっぺんも行ったことない。そんな僕の詩を、谷川俊太郎とか、田村隆一とか、東京におる一番の詩の人たちが認めて褒めてくれた。詩が僕の生きがいになったわけよ」
先述したように、後年には、小説もしたためるようになる長谷さん。うちに秘めた思いを、自分が同性愛者であるということを、ペンネームを使い書き上げる文学のなかでだけは、声を大にして叫ぶことができた。
「そこに僕の理想の世界があったからね。それが僕の生きがいであり、救いであったの。だから、僕は92歳まで生きてこられたんや。家族がなくても、友達がなくても」
語気を強める長谷さんを前にして、それでも記者は素直にうなずけなかった。それは、長谷さんが書いた私小説のなかに、こんな一文を見つけていたからだ。
《悩みを打ち明けるとキズつくのはあたしの方だったから、いつもあたしはあたしを棄ててきたのだ(中略)だから、あたしの性格は消極的たらざるを得ないのだ。失恋の性格がそうさせるのであたしの性格が弱いためではない。あきらめることを知った人間は強いのだ。耐えることを知った人間は、間違わないのだ……》
自分を解放できる文学の世界と相反して、長谷さんは現実の世界では、分厚い殻にこもり、自分を押し殺して生きてきたように思えた。だからこそ3年前、長谷さんは偶然目にした紙芝居劇と、それを自由に楽しげに演じる人たちに、心引かれたのではないか――。