「昔はなぁ、とおちゃんがいで、かあちゃんがいで、となり近所のじいちゃん、ばあちゃんがいで。私らは、小ちゃいうちから、そういう人たちに育ててもらったんだ。

なんぼ貧しくたって歩んでいける。ここの厳しい自然が、それを教えでくれたんだ」

飯舘村(福島県相馬郡)に住む菅野榮子さん(84)は、どこか懐かしい方言で、幼い日の暮らしを語っていた。

傍らで、「そうよね、そうよね」と、真摯に耳を傾けるのは、作家の渡辺一枝さん(77)。同じく作家で冒険家でもある椎名誠さんの妻でもある。

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故から今月で11年。一枝さんは、’11年の8月から毎月、福島に通い続け、『ふくしま人のものがたり』『聞き書き南相馬』(ともに新日本出版社)などに記してきた。

冒頭のように2月15日も飯舘村で暮らす榮子さん宅を訪れていた。

「榮子さんはね、震災の前年までは3世帯同居だったけど、いまは一人暮らし。明るくふるまっていても、『最近、家でころころ転ぶ』と電話口でおっしゃって。だから心配でうかがったんです」

一枝さんと話すと10日ほど心がぽかぽかする、という榮子さん。笑みがこぼれ、昔話に花が咲く。

「最初はね、何か書きたいとか伝えたいとか、これっぽっちもなかったの。

ただ知りたかった。避難できない人もいたでしょうから、その人たちは何を食べ、何を思い、どんな暮らしをしているのか。ニュースだけではわからないことを、ただ自分の目で見て知りたかったんです」

■3.11被災者の証言を通じて知った「ふるさと」の意

仮設住宅を何度も訪れるようになった一枝さんが耳にしたのは、家族やふるさとを壊された福島の人たちの嘆きと怒りだった。

「震災の前まで、福島では何世帯も一緒に住んでいる大家族が多かった。でも原発事故が起きて、若い世帯は避難してしまってね。仮設に残っているのは高齢の方が多かったんです。最初のうちは、『家に帰って家族みんなで暮らしたい』とおっしゃっていた方が、『家族みんなで暮らしたいなんて間違いだった』と言いだした。でも、何度も通ってお話を聞いていると、言葉どおりの意味ではないと気づいたの。娘や孫と離れて暮らすうちに、それぞれの場所での生活が日常になって、いまさら同居しても居心地が悪いだろうとか。そういう複雑な事情が、その言葉の裏にあることがわかってきたんです」

ふるさととは何か、を考えさせられるこんな方もいた。

「仮設住宅にいる間からずっと『帰りたい、帰りたい』とおっしゃっていたおじいちゃんがいて。避難指示が解除されたあと、すぐリフォームした家に戻られたの。

さぞ喜んでいるだろうと思って訪ねたら、『こっちの家も、あっちの家も人が戻らない。寂しくてしょうがないから、昼時は窓際に座って、通り沿いの食堂に来るお客の姿を眺めてるんだ』って……」

テレビのニュースでは伝えられない現実がそこにあった。

「こうして福島の人々の話を聞かせてもらうなかで、ふるさとがどういうものかストンと腹に落ちた。土地じゃない、家じゃない、お祭りじゃない、そういうものをぜんぶ含めたそこでの暮らしがふるさとなんだ、って」

原発事故でふるさとを追われた人たちと、戦争という理不尽な力で流浪を強いられた自分や両親の姿を重ね合わせることもあった。

「浪江町(福島県双葉郡)の津島という地域は、千年も前からこの地で暮らしてきた人たちと、敗戦後に満州から引き揚げて身ひとつで入植した人たちが、一緒に山野を開拓してきた場所なんです。道具もないなか木を倒して抜根して。子どもたちも学校を休んで手伝っていたと聞きました」

原発事故前まで津島には、自然の恵みとともに生きる豊かな暮らしがあった。

「だから住民たちが裁判で、『満蒙開拓で国に裏切られ、帰ってきて祖父母が苦労して切り開いてきた土地を、また国や東電に奪われた。ふるさとを元に戻せ!』と、訴えているのを聞くと胸が痛い。戦争も原発事故も、国策で進められ、人生を翻弄して破壊するという点で同じなんです」

時の流れは残酷だ。被災地に通うようになって11年、福島でできた多くの友人たちを見送った。

「南相馬で高齢者のシェアハウスを造ろうとしていた藤島昌治さん、飯舘村の長泥地区で石材業を営んでいた杉下初男さん、同じく飯舘村の元酪農家、長谷川健一さん……。

みんな私と同世代か若いくらいです」

一枝さんは以前から、「人は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」と考えてきたが、福島の友人たちの死はそう思えない。

「放射能のせいか故郷をなくした心労かわからないけど、“断ち切られた命”だと思えてしまう。原発事故さえなかったら、と」

■子どもたちがルーツを探す日のために記録し続ける

「みなさん、できれば一度福島に足を運んで、ご自身の目で見て、肌で感じてみてください」

2月20日。聴衆にそう語りかける一枝さんの姿があった。東京で開かれた「トークの会 福島の声を聞こう!」の会場でのことだ。

「私のフィルターを通さず、福島の人たちの言葉を直接聞いてほしいと思ってはじめた会なんです」

39回目となるこの日のゲストは、南相馬市在住の高村美春さん。震災と原発事故を語り継ぐために県が設立した「東日本大震災・原子力災害伝承館」で“語り部”をしている女性だ。高村さんは語る。

「福島は、ニュースで伝えられているように“復興”しているわけじゃないし、かといってみんな悲しみに暮れているわけでもない。人それぞれで、いろんな側面がある。一枝さんは、そんな福島で生きる一人ひとりの物語を、語り部となって伝えてくれる人です」

そんな一枝さんが懸念しているのは、“復興”の名のもと、ふるさとが作り変えられている、こと。

「里山を削って別の場所に丘を造ったり、削った跡地をパークゴルフ場にしたり……。

地形自体が変えられているんです。私自身、戦後60年以上たって自分の生まれた(旧・満州ハルピンの)家を探し出すことができたのは、建物は変わっても地形が変わっていなかったから。でもその後、中国全体、チベットもどんどん作り変えられている。福島も同じ。このことの罪って、すごく大きいと思うんです」

地形が変えられてしまえば、故郷の面影がなくなってしまう。

「福島から避難した子どもたちは、行った先がふるさとになるんだろうなと思う。でもいつか、自分の親につながるものをたどっていったときに、福島というのは根っこに残る。残してほしいなと思う。行った先がふるさとになって、その地域の言葉になっても、根っこはどこかにほうりなげたりしないで大事にしてほしい。でも、ふり返ったときにふるさとが失われていたら、たどれないよね……」

未来が見通せない混沌とした現状のなかで、気がかりなのは、未来ある子どもたちのことだ。

「近所に孫が3人住んでいて、週に1度くらいはうちにやってくるの。それはとっても楽しい時間です」

椎名さんも孫たちにメロメロで、帰宅したときに孫たちの靴が玄関にあると大喜びなのだという。

「でも私は、孫だけが特別かわいいってわけじゃなくて、よその子どもも、みんな同じようにかわいい。だから、原発事故も戦争もない世界で思うように生きてほしいと願っているんです」

一枝さんは、耳を傾ける。その人たちが語る言葉に。そこで営まれている人々の暮らしに。そして記録し続ける。

ふるさとが消されてしまわないために。ふるさとに再び出会うためにーー。

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