滋賀県のJR近江八幡駅にも近い、美しい山並みの緑を背にした住宅街をしばらく行くと、突然、童話に出てくるような三角屋根に白壁の建物が現れた。

「かわいい!」

思わず、声が漏れる。

ガラス戸を開ければ、客が3人でいっぱいになりそうな小さなお店。ショーケースに並んだ“みいちゃんのいちごムース”や“みいちゃんのにこにこプリン”というネーミングだけでなく、ハートのイラストなどデザインも楽しいケーキや焼き菓子に見とれていたら、隣の工房から甘い香りが漂ってきた。

ここが、「みいちゃんのお菓子工房」で、店長兼パティシエの杉之原みずきさんは、14歳。

ケーキの販売は月2回、隔週日曜の来店予約制で、不定期で焼き菓子の販売も行う。数少ない開店日には行列のできる店として知られ、記者が訪れた5月半ばの土曜日も、入口には「次回販売日の予約満」のプレートが。

午前10時、最初に工房に現れたのは、みいちゃんの母親で、この店のオーナーでもある千里さん(49)。あれ、みいちゃんは?

「さっき、シャワーを浴びていましたから、まもなくだと思います。マイペースなんです(笑)」

千里さんが注文を受けた焼き菓子の発送作業をしていると、10分ほどして、千里さんとおそろいのエプロンとキャップ姿のみいちゃんがやってきた。千里さんや記者たちが「おはよう」と声をかけるが、みいちゃんはチラと視線を寄越しただけで、もう工房に立っている。

やがて、母と娘が並んでのケーキ作りが始まった。

「今日は仕込みの日で、定番のケーキに加えて、“くまさんのムース”を作ります。このネーミングもレシピも、みずきなんですよ」

そう言いながら、スマホをしきりに見ている千里さん。

「みずきがスマートフォンにレシピを送っておいてくれたので、私はそれを見ながら進めます。さあ、そろそろ、みずきはゼラチンを溶かし始める時間やね」

母の言葉にうなずくように、かすかに頭が動いたように見えたが、やはり言葉はなかった。

みいちゃんが会話をしないのは「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)」のためだ。不安症の一種で、特定の場所で話すことができなくなる精神疾患。子供に多く、小学生500人に1人の割合で発症するといわれ、みいちゃんの場合も、家庭以外の学校や外では言葉が出なくなる。

さらに特定の動きができなくなる「緘動(かんどう)」が現れることもあり、取材の途中では、みいちゃんが急に冷蔵庫の前で立ち尽くす場面も。しかしすぐに作業に戻って、その後は14歳の人気パティシエの巧みな手さばきを見せてくれた。銀色のボウルに山盛りのアメリカンチェリーを洗いながら、千里さん。

「みずきが旬のフルーツにこだわるので、朝一番で仕入れてきました。どんな調理法になるのか、私自身も楽しみです」

2つと同じもののない独創的で愛らしいケーキや焼き菓子は、いまや海外でも評判で、インスタグラムのフォロワーは1.7万人を数える。しかし、ここまではけっして平たんな道のりではなかった。

「みずきの不登校の時期もあり、お菓子作りは、この子の自立と社会適応訓練のためという意味合いも大きかったんです」

■給食が食べられず、水も飲めず……。

教室でできることが減っていき、不登校に

みいちゃんは07年8月17日、近江八幡市に生まれた。会社員の父親・誠司さん(54)と千里さん、専門学校生の姉(19)、そして双子の兄である一樹さん(14)の5人家族だ。

「うちは共働きですから、子供3人は1歳から保育園。みずきがいちばん手がかかったというのは、家で一度かんしゃくを起こすと、2時間も3時間も続くんです。なのに保育園では、お友達ともしゃべらない、工作もできない」

理由を尋ねても、

「……わからない」

小さな声で、それだけ。

「そんな気質の子やろうと思っていましたが、小学校に上がる前に保健師さんらのすすめで専門医に診てもらって、初めて場面緘黙症とわかり、私は落胆より、そういうことやったんか、と腑に落ちたような気持ちでした」

同時に、自閉症スペクトラム、発達障害でもあるとの診断だった。病気のことを、一樹さんに告げたときだ。

「オレがみいちゃんのこと、守ったげるから、ママ、だいじょうぶやで」

双子の兄の頼もしい言葉もあり、近所の公立小学校へ進学。家ではランドセルを喜んでいたが、

「もう、入学式から入場行進ができませんでした。その後も、集団生活の教室では声が出ない、体育ができない、給食も食べられないし水も飲めないしで、脱水症状や栄養失調状態になるほど。トイレだけは、友達の介助で行けました。2年生からは支援学級に入り、みずきのお守りのつもりで障害者手帳も取得しました」

しかし、学年を重ねるたびに、できないことが増えていく。

「体が固まると、かろうじて息をすることと目を動かすことしかできなくなる娘を見て、私も悲しいばかりで、毎日毎日を乗り切るだけで精いっぱいでした」

小4で、不登校となる。

「勉強もぐんと難しくなり、周囲は女の子の仲よしグループができていくなかで、やっぱり、みずきは、そういうのも希薄というか。やがて毎朝『おなかが痛い』と言いだして、3学期にはまったく通学できなくなるんです」

■ネットで見つけた居場所は広がっていく。スイーツカフェはすぐに40席が満席に

「転機は、不登校で家での生活となったとき、みずきにスマホを与えたことでした」

千里さんの声が、少し明るくなる。そういえば、工房でも、母と娘は近くにいながら、スマホを使って円滑にコミュニケーションを取っていた。

「家族の連絡用ということより、みずきに世界とつながっていてほしかったんです。私があの子に伝えたのは、『スマホを使えば文字で人としゃべられるんやで、インスタグラムでは自分のことを発信もできるんやで』と。もう、その日から、私や主人以上に使いこなしてましたね(笑)」

さすが現代っ子のみいちゃんは、すぐにスマホで夢中になれることを見つけたようだ。

「クックパッドや料理アプリを使い、次々にレシピを検索して自分で料理を始めたんです。最初はお総菜で、私も帰宅が遅れたときなど助かりましたが、そのうちお菓子作りにハマって、これじゃ夕飯のおかずにはならないと焦ったりも(笑)。私の勤務中にも、〈今日はコレ作ったで〉〈調味料は何?〉と、頻繁にLINEで届くようになって。ああ、この子、スマホを通じてなら、すぐに返事も返るんやと。

このスマホとの関係は大事にせなあかんと、直感しました」

娘が料理に関心を持ったのを機に、千里さんは18年春、閉店した弁当屋の厨房を借りて菓子製造業の営業許可を取得。ここで、「近江の野菜食堂」を始める。

「食堂といっても、いわゆるマルシェ販売で、弁当も置きましたが、メインはみずきの蒸しパン。このころには、次々にオリジナルの新作メニューを考えるようになり、そのケーキの写真をSNSにアップすると『すごい!』など反響が届くのがうれしそうでした。親ばかですが、私から見ても、味もデザインも、お菓子作りのセンスをすごく感じて、好きなことを伸ばしてあげようという思いだけだったんです」

やがて作りすぎたタルトなどをご近所におすそ分けしていると、次々に「作ってほしい」という注文が届きだす。

「スイーツカフェ、やるか?」

「うん」

19年春、月1回限定のカフェを近所の空き店舗を借りてオープンすると、プロ顔負けのおいしさと、みいちゃんが一皿ごとに施すチョコペンアートの魅力が口コミで伝わり、すぐに40席が満席となってマスコミにも紹介される人気に。

「これやわ!」

千里さんが感嘆したのは、行列よりも、生き生きとケーキを作り続けるわが子の姿だった。

「これまで就労支援で作業所にも行きましたが、体が固まってしまっていました。でも、お菓子作りでエプロンを着けると、この子は別人になる。もうプロやん、と」

同じころ、みいちゃん自身も、インスタに〈いつか自分のお店を持ちたいです〉と書き込んだ。

「それを見て、おっ、えらい大きく出たな(笑)と思うと同時に、そうか、自分の居場所が欲しいんやなとわかって、主人とも相談して、本格的にケーキ屋を始めることを考えるようになりました」

続いて千里さんは、わが子をサポートするべく、製造に加え衛生管理などについても学ぶために、フルタイムで働きながら夜間の製菓技術専門学校に入学する。

「夕方5時半まで仕事をして、京都の製菓学校に移動して9時半まで授業で、寝るのは深夜3時。

やっぱり無謀でした(笑)。卒業まで、予定の倍の2年かかりましたから。でも、今まで、みずきのことを悩み心配してた十数年に比べたら、こんな夢のある苦労なんてないと思えたんです」

さらに、うれしいことがあった。小さな成功体験を重ねるなかで、みいちゃんが再び学校へ通えるようになったのだ。

「自分の居場所を見つけた自信が大きいと思いました。SNSの中で発見したことを思うと、あの子は、今の時代やからこそ生き延びたと思うんです」

その後、開店資金のためのクラウドファンディングを実施し、これも達成。事業計画では、23年春にはグランドオープンして黒字化を目指すことなども報告された。

そして20年1月、みいちゃんのお菓子工房のプレオープンは、彼女が12歳のとき。のちに滋賀県初のグッドデザイン賞金賞受賞となる三角屋根のデザインを、いくつかの候補のなかから即断で決めたのも、みいちゃん本人だった。

小さなパティシエの挑戦は続いていくーー。

【後編】ケーキは私の“声”不安症で話せない14歳人気パティシエの挑戦へ続く

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