住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、大好きだったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「今も、ハーフアップのサイドを流すヘアスタイルにしています。ネットでは『矢部美穂の髪形は昭和っぽい』なんて悪口を書かれたりしますが(笑)、私は大好き。昔から“ミポリンの顔になりたい”と思って、ヘアスタイルの研究も重ねてきたんです」

こう語るのは、タレントの矢部美穂(45)。芸能人で誰が好き? と聞かれると、即座に中山美穂と答えるほどだ。

「もともとアイドルオタクなんです。キョンキョン(小泉今日子)さんや南野陽子さん、のりピー(酒井法子)さん、工藤静香さん、男性アイドルでは忍者を筆頭にジャニーズも大好き。『ミュージックステーション』(’86年~・テレビ朝日系)も欠かさず見ていたし、光GENJIを応援するため、『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)宛に『剣の舞』(’88年)のリクエストはがきを50枚も送ったりしていました」

北海道恵庭市に育ち、アイドル情報のほとんどはテレビや雑誌、ラジオから得ていた。

「北海道にアイドルが来る機会は少なく、まだ幼くてお金もなかったからコンサートに行くこともできなくて……。雪まつりやデパートの屋上にアイドルが来たときに、一人で見に行ったことも」

中山美穂は、デビュー当時からの憧れだ。

「『毎度おさわがせします』(’85~’87年・TBS系)は、ませた内容だから親の前で見られず、再放送を一人でこっそり見ていた記憶があります。ただ、当時は思春期だったものの、まだ異性や恋愛に対しての興味もあまりなかったから、“素敵だな”ってミポリンばかりを見ていました。歌手としてのミポリンも大好きで、デビュー曲の『C』(’85年)、『ツイてるねノッてるね』や『WAKU WAKUさせて』(ともに’86年)、『ママはアイドル!』(’87年・TBS系)の主題歌だった『派手!!!』(’87年)、『You’re My Only Shinin’Star』(’88年)など、好きな曲を挙げたらキリがありません」

’90年代になると、彼女はますますテレビやラジオにのめり込んでいった。

「小学校高学年から始まったイジメが、中学に進学するとエスカレートしていったんですね。『矢部菌』とか『汚ない』と言われ、クラスの子たちからは人間扱いされませんでした」

家庭は、母親が父親と離婚・再婚を繰り返す落ち着かない状態。イジメられていることを相談することもできず、毎朝、学校に行くふりをしていたという。

「学校に欠席の電話をした後、駅のトイレなどで過ごして、学校の授業が終わる時間に帰っていました。それが自分の身を守る方法だったんですね」

心穏やかになるのは、夕方に帰宅してから。

「夜にかけてテレビ番組を見たり、アイドルの歌を聴いたりするのが唯一の癒し。なかでも、ミポリンの曲は日常の嫌なことを忘れさせてくれました」

■私には芸能界以外に選ぶ道がない状態だった

ミポリンの曲に触れるために、ラジオ番組にも夢中になった。

「あるとき、リクエストはがきを送ると『お便りをくれた矢部美穂さん』と読んでくれたんですね。学校では“ちゃん”や“さん”もつけられることがなかったので“私を人間として認めてくれた”って、すごく喜びを感じたんです。ラジオって、自分に語りかけてくれるようなところがあり、すごく温かな気持ちになるんですよね」

そんな状況下で描いた夢が、芸能人になることだった。

「このまま北海道にいたら、イジメられたまま。とにかく東京に逃げたかった。

学歴がない私が、親に経済的な迷惑をかけずに東京で生きていくためには、芸能人になるしかないって、思ったんです」

選考会のための交通費や宿泊代を負担してもらえる「ホリプロタレントスカウトキャラバン」やオスカープロモーションの「全日本国民的美少女コンテスト」など、大きなオーディションに絞って応募した。

「奇跡的に、裕木奈江さんそっくりに撮れた写真があって、それを送ると、書類審査はだいたい通りました。面接では、母のアドバイスで『芸能界で食べていきたいです』と答えるようにしていました。ハングリーさを伝えたくて。学校にほとんど行っていないから成績が悪く、どこの高校も受からないほど。勉強ができれば別の選択肢もあったと思いますが、私には芸能界以外に選ぶ道がない状態だったんです」

その気迫もあり、堺正章が司会を務めたオーディション番組『ゴールド・ラッシュ!』(’91~’93年・フジテレビ系)に出演。

「最初は30人ほど参加できるのですが、歌や水着の審査で徐々に落とされ、最終審査に残るのは5~6人ほど。そこには選ばれませんでしたが“近づいてきている”という手応えはありました」

そして’92年、雑誌『Momoco』(学研)の美少女発掘コンテスト「New MOMOCO CLUB」のグランプリを受賞したのだった。

「グランプリが決まったときはうれしくて“生きていくことができる”ってホッとしました」

以来、浮き沈みの激しい芸能界に身を置き続けられているのは、ハングリー精神を持ち続けているから。

「運のよさもあると思います。’92年にデビューしてバラエティ番組やグラビアの仕事が続いたのですが、数年たって仕事が少なくなった時期もありました。でも、そんなときにこそチャンスが訪れる。

たとえば’90年代後半に発売された『たまごっち』にハマっていることを、よくまわりに話していたのですが、空前のブームになったことで私にもテレビや雑誌の取材が殺到し、死んだたまごっちを生き返らせる裏技などを紹介したりしました」

デビュー数年後には、念願の中山美穂との対面を果たした。

「私のマネージャーさんがミポリンの所属事務所へ転職したこともあって、あるときコンサートに行くと『せっかくだから、楽屋へ挨拶に行こう』と声をかけてくれたんです。すっぴんのミポリンに会うという貴重な体験をしましたが、あまりに舞い上がって、何をしゃべったのかまったく覚えていません。でも、大きな夢が叶いました」

“ミポリンになりたい”という強い思いが、厳しい芸能界を目指すモチベーションとなったのだ。

【PROFILE】

矢部美穂

’74年、北海道生まれ。’92年、雑誌『Momoco』のコンテストでグランプリを受賞したことをきっかけに芸能界デビュー。バラエティ番組、グラビアを中心に活躍する。’98年にはイジメについて語った著書『学校拒否』(光進社)を出版。’22年に騎手・山林堂信彦との結婚を公表

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