故・瀬戸内寂聴さんを、秘書として公私ともに支え続けてきた長尾玲子さん。
寂聴さんのいとこの母とともに、中学時代から寂聴作品の資料集めなどをしてきた。
「’73年の夏ごろ、はあちゃんは、何かに追い詰められていました。編集者や友人らとにぎやかに談笑していたかと思えば、突然、中座して自室に籠もったり。
実は当時、近くのマンションで飛び降り自殺があったんです。中学生だった私は、勉強部屋の窓が、はあちゃんの仕事部屋のちょうど真下の位置にあったので、彼女が落ちてくるのが目に入ったらどうしようと、そんな不安を感じながら、日々を送っていました」
語るのは、’21年11月9日、99歳で亡くなった小説家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの元秘書だった長尾玲子さん(66)。
長尾さんが寂聴さんを、親しみを込めて、本名「晴美」にちなんだ愛称である“はあちゃん”と呼ぶのは、彼女が寂聴さんの親戚でもあるからだ。母親の恭子さん(89)が、寂聴さんの11歳年下のいとこという間柄となる。
今年11月に長尾さんが出版した『「出家」寂聴になった日』(百年舎)では、冒頭部分にこうある。
〈私は、一九七〇年から二〇一〇年の年初まで、濃淡はあるが四十年間、晴美そして寂聴の文学創作に関わっていた。後半の十五年間は、秘書として〉
もともと長尾さん自身が文学少女。4歳で初めて対面し、小学5年のころから谷崎潤一郎の名を口にするこのいとこの娘に、寂聴さんは「おませさんね」と言いながら目をかけた。
「私がこの本の原稿を母に読ませたとき、はあちゃんは徳島で言う、おへちゃの丸顔の笑みが持ち味だったのに、出家当時はいつも髪の毛が逆立っているように見えたと言うんです」
すでに人気作家だった瀬戸内晴美が、突然の出家で瀬戸内寂聴となり、文壇と世間を驚かせたのは’73年11月、51歳のとき。長尾さん母子が自殺を案じていたのと同じ年の出来事だった。
「瀬戸内の出家は、一般には、不倫相手たちとの関係を断つためなどとされています。
しかし、そんな単純なものではありません。私はずっとそばにいて、本人にも何度か尋ねもしましたが、そのたびに違う答えが返ってきて気になっていました。私なりの真実にたどり着いたのは、つい最近のことです」
この秋に一周忌を迎え、長尾さんの本など多くの出版物や、最後の不倫相手だった作家・井上光晴の長女である井上荒野原作の映画『あちらにいる鬼』の公開もあり、寂聴さんの生涯が注目されている。
そんななか、出会ってから60年超、血縁にして秘書の長尾さんだからこそ知り得た「人間・瀬戸内寂聴」の素顔と秘話について語ってもらった。
■“伝説のはあちゃん”は親戚の集まりでいつも話題にのぼっていた
長尾さんが、やはり文学好きの両親のもとに徳島県で生まれたのは’56年のこと。寂聴さんとは34歳の年の差となるが、物心ついたとき、すでに気になる存在だった。
「親戚が集まると、いつも話題になっていました。“あの晴美は”、と。
はあちゃんこと寂聴さんが20歳で女学校の教師と結婚したものの、夫の教え子だった涼太と不倫して4歳の娘を置いて家を出たのが、
’48年。この騒動直後、突然、彼女が親戚の恭子さんの家を訪ねたときのことも、長尾さんの著書に記されている。
〈恭子の母が、
「生きとって、よかった」
と涙ぐんだ。
「どこにおるんや」
と恭子の父。
「京都。女子大の友達んとこに居候しとるん」
いつもの早口ではなく、下を向いてぼそっと言う。
「日のあるうちに、よう徳島の町を歩けたなあ」〉
親戚中の話題の人物だったというが、けっして明るい噂話ばかりではなかったことがうかがえる。
その後、上京した長尾さん一家は、前述のとおり、’70年暮れから寂聴さんと同じ東京都文京区のビンテージマンション「本郷ハウス」で暮らすようになる。
「もともとは父が事業に失敗し、私が4歳のときに徳島から逃げるように上京したわが家でした。このときは、はあちゃんとは挨拶だけでしたが、その後、父は出版関係の仕事で安定した生活を得て、本郷ハウスの7階に引っ越します。
すると同じ日に、はあちゃんも11階で荷ほどきの最中だったんです。
もっと驚いたのは、伝説のはあちゃんの暮らしぶりだった。
「こんな生活って世の中にあるんだ、と。デザイナーが選んだ北欧家具で統一された部屋にジャズが流れて。はあちゃんの普段着のオシャレも独特で、ジーパンに上はヴィトンにシャネルだったり。その後、中学2年で評伝小説の資料探しの手伝いを始めました」
すでに『夏の終り』で女流文学賞を受け、続いて『かの子撩乱』など話題作をものにし、多くの連載も抱えていた時期だった。
「はあちゃんの指示を受けて、私は神保町の老舗古書店さんを行ったり来たりでした。そのうち店主と顔なじみになって、『その資料なら、○○書店にあるはずだから、連絡しといてやるよ』ということも。学校の文芸部の活動より、よっぽどおもしろかったです」
のちに自身もライター業などをする長尾さんには、寂聴さんから学ぶことも多かった。
「これだけ膨大な資料を集め、集中して目を通していても、作品になるときにはほとんど捨てていくんだと。そのストイックさに、プロの作家の流儀を知らされました」
■出家後、マスコミの目を逃れて長尾家に来た寂聴さんを見て、涙した母
当時の新恋人で、寂聴さんの人生を大きく変えることになる作家・井上光晴との出会いは’66年、寂聴さんが44歳のとき。高松への講演旅行までさかのぼる。
その後、最初の不倫相手である涼太も絡んでの三角関係となり、さらには、井上の妻も寂聴さんとの関係を知ることに。
その複雑な人間関係から逃れるように精力的に書き続ける傍ら、草創期のワイドショーのご意見番までやるようになっていた。
「とにかく小学生のような好奇心の持ち主で、新しいものは全部知りたい、やってみたいという人。人気アイドルのコンサートも、とにかく行ってみる(笑)。
でも、文壇から、テレビに出ること自体が作家の価値を下げているとの批判もありました。
書くジャンルも広範すぎると、4つも年下だった井上さんから、お説教もされていたそうです」
文壇デビュー後に冠されていた「子宮作家」のレッテルを剝がせず、憤りを長尾さんにぶつけることもあった。
「文芸評論家が、あたしのことを『女の業を書き続けてきた』なんて言うのは腹が立つ。あたしは女の業なんか書きません。人間を書いているのよ、人間を。でも、そう言われるということは、まだ書けてないんだなあ」
そう言って、身を削るようにして執筆し、マスコミに登場し続ける寂聴さんを、長尾さん母子は陰で支え続けた。執筆や取材の経費などが、長尾家の持ち出しのこともあった。
「中学2年の資料調べのころから、報酬はなくて『好きなだけシュークリームを買っていいから』とはたまに言われました(笑)。
取材後など、出版社の方たちと食事になったりする。でも瀬戸内は払わないで、さっさと行っちゃうんです。カードを持たない母は『現金30万円持っていても足りなかったわよ』と言っていました」
親戚でもある作家の創作活動を支えているという自負があったのだろうか。
「それは違います。私たち母子も好奇心旺盛でしたから、瀬戸内と一緒にいることが、ただただ楽しかった。また、瀬戸内もケチというのとは違うんです。そういう面には頭がまわらない性分なんだと、付き合いの長い母も知っていましたから」
やがて’73年の秋が訪れ、“はあちゃん”は、師僧の今東光(法名・春聴)大僧正に導かれて岩手県の中尊寺において天台宗で得度する。
「出離者は寂なるか、梵音を聴く」という仏教の言葉から、法名は寂聴となった。その名には、森羅万象の音に寄り添い、出家者は寂かな心で聴く、との意味があるという。
この出家は長尾さん母子にとって突然のものだった。血縁者として、ずっと思い詰めた様子だった寂聴さんの自殺まで心配していた2人は、出家の報にふれて、大きなショックを受けたそうだ。
「特に母の恭子は、事前に知らされなかったことで落ち込んで、ぎっくり腰で寝込んだほどでした」
恭子さんは、幼いころから身近にいた寂聴さんの出家を聞き、こう洩らしたそうだ。
「あんなオシャレや美容に気をつかう人が、法衣しか着られない生活を選ぶなんて」
出家から1週間後、剃髪姿となった寂聴さんが、長尾家をこっそり訪ねてきた。
「あたしのとこはマスコミがいるかもしれないから、あんたんとこにおらせてもらいたいんだけど。やっぱり、頼れるのは親戚ね」
その言葉を聞いて恭子さんの目には涙が溢れたという。
【後編】元秘書・長尾玲子さんが初告白 寂聴さん、たった一度の弱音「私、傲慢だったわね」に続く