【前編】「街の人情伝えます」現役91歳 かあちゃん記者、疾走るより続く
中野区白鷺にある細田家住宅は、区内に唯一残る江戸末期のかやぶき屋根の古民家だ。樹木に覆われたその敷地内で、1月29日の日曜日の午後1時から、「中野たてもの応援団」によるたくあん作り実習の樽開けが行われた。
昨年から仕込まれていた50本のたくあん漬けが完成するとあって、大勢の参加者が集まった。
「この大根の品種は? 練馬大根じゃないんですか? ずいぶん細い大根ですね?」
先ほどから、主催者たちにしきりに質問しながらメモを取っているのは、こちらも中野区で唯一のローカル新聞である『週刊とうきょう』の主筆兼記者の涌井友子さん(91)。
この日、快晴ではあったが、寒波に襲われ、気温はわずか6度。涌井さんは、145cmという小柄な体をダウンジャケットに包み、頭には毛糸の帽子、手にはボールペンとメモ帳、肩からはデジカメをぶら下げ、次々と参加者からもコメントを取っていく。
今朝、ここへ循環バスに乗って到着したときこそトレードマークの青い杖をついていたが、取材が進む間に、いつか杖も傍らに置きっぱなしで話に夢中に。その姿を見ながら、たてもの応援団事務局の十川百合子さん(67)が言う。
「中野区内のどんな催しに出かけても、涌井さんは必ずペンとカメラを手にして、いらっしゃいます。取材するだけでなく、地元の私たちでさえ知らない人物や歴史を掘り起こして記事にして、広く中野区民に伝えてくれます。
90代になっても現役で活動する姿は、私たち区民のお手本です」
来年には、創刊50周年を迎える『週刊とうきょう』。涌井さんが亡き夫から引き継ぎ、中野の人たちから“かあちゃん記者”と呼ばれるようになってからも40年以上にわたり、ローカルな記事を通して区民をつないできた。
ちなみに、中野区の酒井直人区長(51)とも、区職員時代から26年の付き合いだという。
現在、タブロイド判モノクロ2ページのこの新聞は、月2回の発行で、部数は約3000部、購読料は6カ月3150円。
終戦後は「畑と住宅ばかりだった」という中野区が、やがてサブカルの街と呼ばれるようになる半世紀の変遷を、地域に根を下ろして見守り続けてきた涌井さん。区民からの信頼は絶大だ。
と、そのとき、参加者の一人から逆に涌井さんに声がかかった。
「ところで、今日の記事は、いつ新聞に載るんですか」 「はい、2月10日号の予定です」 「みなさ~ん、10日の『週刊とうきょう』に注目ですよ」
参加者たちから拍手が湧き起こり、その笑顔を逃すまいと、またカメラをかまえる涌井さんだった。
■夫は中野区のローカル新聞の記者 結婚の翌日に新聞の集金に行ってくれと頼まれて
涌井さんは、1931年(昭和6年)4月、静岡県藤枝市に生まれた。
幼いころから文学少女だった涌井さんは、
「東京の大きな短歌の会にも参加するようになったんです。その場所が、中野でした」
そこの会員だった新聞記者を通じて知り合ったのが、夫となる啓権さんだった。
’58年、中野区の鷺宮に引っ越し、新婚生活が始まった。
「新聞の集金に行ってくれ」
夫の啓権さんから突然言われたのは、結婚の翌日だった。
「そりゃ、驚きましたよ。仲人だったローカル紙の社長にすれば、社員を雇うより記者の家族を使ったほうが安く上がるので、『新妻をタダ働きさせよう』と(笑)」
実際は歩合制のアルバイトで、これは涌井さんにとっても、いわば天の助けだった。
「すごく安月給でしたから、少しでもバイト代をいただけるのは、ありがたかった。
あとでわかるが、これが涌井さんの記者修業の第一歩となった。
「静岡から上京したばかりで、道なんて、わからないでしょう。だから、主人に地図を描いてもらって、それを頼りに歩きました。そうやって、迷い迷いしながら、中野区の道路を、それこそ裏道まで覚えていったんです」
結婚から15年。3人の娘もでき、母親業と新聞制作の助手をしながら、あわただしい日々を送っていたとき、思いがけない出来事が起きる。
「主人が、勤めていた新聞社の社長との意見の相違があって、独立することになるんです」
こうして、夫婦2人で『週刊とうきょう』を創刊。’74年1月だった。この前年には、中野駅前のシンボルともいうべき中野サンプラザも開業していた。
「“週刊”でもないし、“東京”でもないわけですから、看板に偽りばかりですよね(笑)。
でもね、主人も最初は中野区以外の取材もするつもりだったし、当初は月3回発行したことも。それでも月2回になったのは、主人の体調のせいも。
創刊に当たっては、夫とこんな約束をした。
「当時は中野だけでローカル新聞が紙ありましたが、『悪口は書かない』『広告主も一般人も平等に記事にする』と決めました」
もちろん印刷も写真も、デジタル技術などほとんどない時代。
「活版印刷で、締切りギリギリに主人の原稿や写真フィルムが上がって、私が自転車で製版所や印刷所に届けることも多かった」
相変わらず集金も涌井さんの役割だったが、一方で家族は増えて、4姉妹はどんどん成長していく。
「子供たちは全員、保育園と学童のお世話になりました。ときには主人の取材が重なって、私がピンチヒッターをすることもあり、保育園のお迎えに行けず、街の赤電話から『あと15分だけ待ってください』と保母さんにお願いするのもたびたびでした」
しかし、’82年4月、主筆だった夫の啓権さんが、夢半ばにして亡くなってしまう。
「糖尿病など持病もありましたが、最後は肝臓がんで。当時の日本では一般的でしたが、告知をしなかったので、本人は復帰するつもりで、ベッドの上でも亡くなる直前まで記事を書き続けていました」
新聞発行に関しては、誰もがもう存続は困難だろうと思っていた。涌井さん自身も、
「長い間、手伝いこそしていましたが、新聞作りは、いわばド素人。ですから、主人の記者仲間や印刷所などの関係者、それに購読者の方たちも、廃刊になるのだろうと考えているようでした。私も、仕方ない、と諦めていたというのが正直な気持ちです」
ところが、四十九日の法要の席だった。夫の遺影を眺めていて、涌井さんは、ふと思う。
「夢だった新聞を創刊して、たった8年ですからね。
周囲にその気持ちを告げると、意外なことに、ほとんどの人が、
「記事は下手でもいいから、かあちゃん新聞でいいから、続けてよ」
ああ、夫は、この新聞は、中野の人たちに本当に愛されていたんだ、と改めて思い知らされるのだった。そして、その決意は、夫の死後に発行された新聞の一隅に「社告」として表明された。
〈『週刊とうきょう』の営業は引き続き涌井友子が主人の遺志を継ぎ継続させて頂きたく存じますので、今後ともよろしくご指導ご鞭撻頂きたく伏してお願い申し上げます 涌井友子〉
こうして、夫の残したニコンFを首からぶら下げて、4人姉妹を育てながら、かあちゃん記者となった。ちょうど50歳だった。
■赤ちゃんをおぶりながら取材にいそしむ50歳のかあちゃん記者
「私が、主催する会のイベントの司会者としてステージで話していると、行くところ行くところに、赤ちゃんをおぶって会場を歩きまわりながら、鉛筆をなめなめしてメモを取っている女性がいて、とても目立ったんです。
その健気な姿に共感して声をかけ、中野サンプラザの喫茶室でお話ししました。そしたら、どっちも母親で、自分のことだけでなく、地域のためにも頑張ろうとしていて、意気投合するんです」
中野区で、こちらも長い間ボランティア活動を続けている世代間交流「夢のかけ橋」会長の丸山陽子さん(81)が語る。
やがて、かあちゃん記者の記事に、こんな評価が。
「新たに紙面に『女性の視点が加わった』と言われました。男性は広い目で社会を見る、私は女性記者として、一人の母親として、生活に密着した記事が多かったかも。
上高田の少年野球チームが猛暑の中で練習している光景を見て、次の取材時に手作りした梅干しを持参したら、すごく喜ばれて。
そんなローカルならではの温かみは、大切にしましたね。
「新聞作りは山あり谷ありでしたが、これまで一度も休刊してないのが、私の記者としての誇り。
いちばん好きなのは、選挙取材。地域密着のローカル紙だからこそ、必ず全立候補者の事務所を回ります。今じゃ、候補者の背中を見ると当落がわかるなんて話してたら、ある議員さんから『おっかねえ』なんて言われました(笑)」
と、涌井さん。
前出の次女の久美子さんが新聞作りをサポートするようになってもう20年になる。ずっと同居もしており、すでに記者として母の後を継ぐことも表明している。
「母は話したがりませんが、父が亡くなったあと、新聞だけでは私たち4人姉妹を食べさせることができなくて、2度ほど生命保険の外交員をしていた時期もありました。三足のわらじだったわけです。
最近も、私が母の代わりに取材に行くと、『あの、おんぶされていた赤ちゃんが、とうとう一人で取材に来るようになったか』と言われることも。実は、それは末の妹のことなんですが(笑)」
今では、新聞制作もデジタル化しており、パソコンへの記事の入力や割り付けを久美子さんが担っている。
「記事は母、入稿は私という二人三脚です。父は、私たち家族にお金は残してくれませんでしたが、母にローカル新聞という生きがいを残してくれた。そのことは、娘としても感謝しています」
『週刊とうきょう』は来年早々にも50周年を迎えるが、その前に今夏に、ほぼ同じ歴史を持つ、あの中野サンプラザが閉館する。
「もちろん記事にするつもりで、今から準備しています。中野がこんな若者の街になるとは、新聞を創刊したころには想像もしていませんでしたが、これからも中野という街の変化と変わらないよさを、私のペンで伝え続けたい」
このインタビューの日も、その中野サンプラザで行われるイベントの取材のため、寒風の中、ペンとカメラを手に、青い杖をついて中野の街へと繰り出してゆくかあちゃん記者だった。