「どうもようこそ! あけましておめでとうございます! 今年、デビュー40周年を迎えております、嘉門タツオです!」

1月8日のこと。東京・渋谷のライブ会場SHIBUYA Pleasure Pleasure は300人と満員の盛況だった。

ヒット曲『鼻から牛乳』のサビがリフレインするなか深紅のギターを肩に掛け、白いジャケットで登場したのは、シンガー・ソングライターの嘉門タツオ(64)。’80年代に登場し『小市民』『鼻から牛乳』などあまたのコミックソングで、年齢性別を問わず笑わせてきた希代のパフォーマーだが、その名を最も知らしめ、親しまれる存在に押し上げたのは『替え唄メドレー』(’91年)だろう。

替え唄のレパートリーを盛り込みながら『明るい未来』や『炎の麻婆豆腐』などの近作を2時間超ノンストップで披露した嘉門だったが、私生活では、昨年9月につらい別れを経験していた。

14年間連れ添った愛妻・こづえさんに、脳腫瘍の一種「びまん性星細胞腫」で、57歳の若さで先立たれていたのである。

嘉門は、11月にそれを公表していたが、この渋谷公演の冒頭では喪中であることに触れず「年賀の挨拶」で口火を切っていた。あくまで笑いのスペシャリストとして客を笑わせ、和ませる存在としてステージに立ったのだ。

「ライブやアルバムでのパフォーマンスとは別に、妻のことを形に残しておきたいんです」

嘉門の思いに、じっくり耳を傾ける取材は、順調に進んでいた、はずだった。

■破門、放浪、そして再び芸能界へ……。波乱に満ちた時代に、桑田佳祐から名をもらった

嘉門タツオは、1959年3月25日、大阪府茨木市で生まれた。旭屋書店に勤める会社員の父と専業主婦の母とのあいだに生まれた長男で、下に妹と弟がいる。

「音楽に目覚めたのは10歳のときです。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』の世界観に影響を受けました」

世は高度成長のただなか、大阪万博開催(’70年)に浮かれていた。

地元開催に胸を躍らせながらも、嘉門は落語家・笑福亭鶴光(75)がパーソナリティを務めるラジオ番組『ヤングタウン』に夢中になり、常連投稿者となっていた。

「16歳、高校生のとき、鶴光師匠を訪ね“見習い弟子”にしてもらいました。毎週土・日に師匠宅で、家事や雑事をこなしたんです」

芸名「笑光」を授かると、’78年4月、19歳で『ヤングタウン』のオーディションに合格。

「番組レギュラーで『笑光の涙の内弟子日記』というコーナーを持ち、『弟子修業のつらさ』を弾き語りで披露したらウケたんです。『師匠のギャグは、ぜんぶ僕が考えてる』とか、ほとんど放言でしたが」

人気はうなぎ上りで1時間番組のメイン司会のオファーが来たが、「若気の至りで、師匠の奥さんに反抗的な態度を取り続けてしまった」結果、破門となってしまう。当時の「破門」は芸能界「出禁」に等しい厳しいものだった。

「もうこの世界に戻れない。21歳、傷心の僕は北に向かい、稚内市、利尻島、礼文島と巡ったんです」

ヒッチハイクをしてユースホステルに泊まる経験をした。続いて長野県のスキー場でアルバイト。翌夏は鹿児島県・与論島を放浪。

「各地で出会う人々に十人十色の人生があると気づいた。どうすれば人が心を開いてくれて、笑ってくれるのかを学んだと思います」

“大人”になって帰阪した彼に救いの手が伸べられた。

大手事務所アミューズの大阪事務所の開設時に、営業担当で雇われたのだ。

「当時はサザンオールスターズが『いとしのエリー』に続くヒットを狙って営業展開する時期でした。僕は『チャコの海岸物語』のプロモーションに奔走しました」

同曲は有線放送1位を2カ月続けて獲得し「プロモーター・鳥飼達夫(本名)」が評価された。すると桑田佳祐(67)の別働のバンド「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」の前座で10分間、歌手としての出番が与えられた。そして桑田から「嘉門」の名字をもらい「歌手・嘉門達夫」(当時)が誕生したのである。再起は’82年10月、『ヤングタウン』だった。

■「楽しく温かい人なら安心できる」がんサバイバーのこづえさんは結婚を決めた

落語家・笑光から転身した歌手・嘉門達夫は、飛ぶ鳥を落とす勢いでヒットを生み出していく。

『ヤンキーの兄ちゃんのうた』(’83年)でYTV全日本有線放送大賞新人賞、『替え唄メドレー』(’91年)は84万枚の大ヒット。そして’92年大みそかに『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、’93年には日本武道館にも進出した。その後も『ガッツ石松伝説』(’02年)や『明るい未来』(’03年)など、話題作を続けて発表。私生活では’90年代に一度、婚約までして解消した経験があったが、その後「特に結婚願望はないまま」40代後半を迎えていた。

そこに運命的な出会いが訪れる。

’07年のことだった。

「友人が宴席に連れてきたのが、彼女でした。僕の6歳下で『白内障手術にすぐれた眼科医』と紹介されたんですが……『嘉門達夫』のことは知らなかったんです」

その女性が東京慈恵会医科大学病院眼科医だった大原こづえさん(当時42)。目鼻立ちがクッキリしたロングヘアの彼女は知性あふれる才女だが、苦労人でもあった。

「お父さんを早くに亡くし、3人の弟の面倒を見ながら、勉強して眼科医になった。とにかく個性も押しも強い女性で『なかなか釣り合う人がいなくて独身できた』という友人の説明にも納得でした」

ここで笑福亭笑瓶さん(享年66)、北野誠(64)ら友人にプッシュされ、2人で食事に行くように。すると「40代まで独身」が共通項となり、ほどなく恋人同士となった。

結婚は、’08年11月、嘉門49歳、こづえさん43歳だった。翌年2月に東京と大阪で行った披露宴では、明石家さんま(67)、久本雅美(64)はじめ多くの芸能関係者に盛大に祝福された。

「彼女が『この人とだったら……』と思ってくれたことで、結婚願望のなかった僕でも『こんなふうに思ってくれる女性なら、大丈夫だろう』という意識になりました」

じつは結婚前、こづえさんから「がんサバイバー」であることを打ち明けられていた。結婚6年前の’02年に脳腫瘍が発見され、摘出手術を受けていたのだ。

「でも、それも『(手術で取り切れなかった腫瘍は壊死状態、もしくは不活化していて)大丈夫だから』ということでしたので、僕も安心していたんです」

ともに40代の門出をしっかり結びつけたのは「病いの存在だったかもしれない」と打ち明ける。彼女は、’07年年末、嘉門の著書『た・か・く・ら』(扶桑社刊)を読んで感銘を受けていたのだ。

「僕の幼馴染みで、肺がんで亡くなった高倉義和との日々を綴った本です。にぎやかな最期を彼に過ごしてほしかった僕は、友人全員で見送るつもりで、病室に次から次へと見舞いに来てもらいました。彼女はそのくだりを読んで僕を信頼してくれたみたいで。『こんなふうに楽しく、温かく見送ってくれる人だったら、過去に病気をしている私も安心できる』と」

新生活は濃密な時間になった。

「新しいお店の発掘に、食べ歩き、飲み歩きをしました。目黒駅近くの焼き鳥『鳥しき』には200回以上も行きました。四谷三丁目の四川料理『蜀郷香』にも80回ほど。ワインに詳しい彼女に、僕が教えてもらいながら……そんなことが楽しかったんです」

嘉門は「こづえさん」、彼女は「たっとぅん」と呼び合ってきた夫婦。都内近郊に限らず嘉門のツアーに同行して地方の名店にも出掛けた。

そんな“食通”夫婦の合作が、’16年発表のアルバム『食のワンダーランド ~食べることは生きること~ 其の壱』だった。

「収録曲『炎の麻婆豆腐』は彼女に相談してできた一曲です。2人共通の楽しみの『食』を通じて、『食べることの大切さ』を伝える作品を共同制作できました」

こづえさんは、’02年の手術後も何年かは、仕事として診察や治療をしていたものの、手術の後遺症なのか、体の動きに不自由な部分が出始め、徐々に現場仕事ができなくなってきてはいた。だが3カ月に一度のMRI検査の経過は順調で、特に再発や病気の進行は見られなかった。だからそのつど、安堵していたものだ。

ところが昨年3月、こづえさんは急に視野狭さくが出て、会話の途中で単語が出てこなくなったり、強度の頭痛を訴えたりした。そして5月末の検査で脳腫瘍の再発と診断されたのだった──。

■こづえさんのお見舞いに160人も駆け付けた。亡くなった後は、「あっぱれ」と拍手して……

「こづえさんは、かつては白内障の手術などで技術を高く評価されていたんですが、脳腫瘍後は右手が万全ではなく、結婚したときはすでに執刀のメスはおいて、診療医をしていました。そんなときに僕と出会ったことで『嘉門タツオの表現を一緒に作り上げる』ことに、希望をシフトしたんだと思います」

“白内障手術のスペシャリスト”がメスを奪われる……その絶望は想像に難くない。しかしそんな折に嘉門が現れ、彼の才能の裏に、人へのやさしさ、思いやりを感じ取ったこづえさんは「この人となら」と新鮮な気持ちで結婚生活を楽しんだ。

徐々に不自由の度合いは増したが、結婚から14年、彼女は幸せな時間を過ごしてきたはずだ。

「女性としての希望も、再発するまで彼女は持っていました。2人で不妊治療もして、こづえさんは卵子凍結までしていたんです」

母になる夢も抱いていたこづえさんを襲った脳腫瘍の再発。5月の検査では、腫瘍が9cmにも肥大して発見されたのだ。

「なぜそんなに大きくなるまで、と思うでしょうが、彼女はずっと、定期検査で経過観察していましたし、昨年3月の検査でも『縮小している』と言われていました。ただ、再活性化したことで急激に進行したのではないかということでした。6月8日の摘出手術は、8時間もかかったんです」

退院したのは6月末。ふつうに食事もお酒も口にできたが、ものの2週間で、こづえさんは「脚が痛い」と言いだした。

「調べると、もう脊髄に転移してしまっている可能性が高いことがわかったんです……」

自宅で嘉門は付きっきりで看病した。移動の車いすの乗り降りを手伝い、トイレの介助も。だが嘉門も疲労が蓄積して不眠症状が出たため、飲酒で紛らわせていたら、膵炎になってしまった。

結局、彼女は入院することに。

「もう体中が痛かったかもしれません。僕は最後の抗がん剤治療にかけたかったんですが、本人は『おうちへ帰りたい』と希望しました。それで自宅での緩和医療にしたんです。8月下旬のことでした」

抗がん剤治療はがんを撲滅する期待が持てる半面、体のダメージも大きい。だが緩和ケアは、もう本人の生命力に頼るほかない。

つまり、最後の日までの看取りの期間となることを、覚悟しなければならないのだ。

「もちろん再発と言われた時点で、『いつかその日が来る』と覚悟はしていたつもりなんですが……」

在宅の日々を「最もにぎやかに過ごしてほしい」という思いから、嘉門はできるだけ多くの友人に、お見舞いに来てもらうようにした。こづえさんが「会いたい」人に声を掛けていくと、連日、多くの友人が家を訪ねてきた。

「160人も来てくれました。みなさんとワインを飲みながら過ごす。こづえさんも楽しそうでした」

しかし固形物は食べられなくなり、みるみる痩せてきてしまったこづえさんは、もはや話すこともできなくなっていた。

9月14日には、発熱が39度から下がらなくなり、血圧が高く動悸も激しくなっていた。翌15日夕刻、付きっきりでいた嘉門が訪問看護師と話すため部屋を外した、わずか2分のあいだに、こづえさんは息を引き取った。

「いちばん僕が見たくなかった息を引き取る瞬間を、彼女は見せないように逝ったんだと思う。僕は『あっぱれ!』と拍手して……」

話し終わらないうちに、嘉門の目から涙がこぼれる。なにかを言おうとするものの、言葉が出ない。ようやく取り直して明かしたのは、亡くなる2カ月前の昨年7月、2人でドライブ中の、こづえさんのこんな唐突な言葉だった。

「なにがあっても、私は応援してるからね」

その言葉に嘉門は「おう」と答えたまま、黙ってしまったという。

「……彼女は特別に、という感じでなく、自然に言っていました。

ここ数年、それぞれの母を亡くしたこともあって『人間には寿命があるからね、抗えない寿命がある』と口癖のように言っていた。覚悟していたんでしょう」

愛妻の思いを胸に、嘉門は正月の渋谷公演まで走り抜いたのだ。

■「もう一生、死ぬまで車を運転しません。今日でお酒もやめようと決めました」

「たいへん申し訳ございません、ご迷惑をおかけしまして……」

黒いジャケットの嘉門が深々と頭を下げ、こちらに謝罪した。妻を失った悲しみと、再起への思いを聞いてきたはずの取材が、こんな結末を迎えるなんて──。

1月17日夕、当初の締切り直前に嘉門のマネジャーから慌てて電話があった。同朝8時半、自家用車を運転中に追突事故を起こした嘉門は、警察の事故処理中にアルコールが検出され、なんと酒気帯び運転で現行犯逮捕されたという。

マネジャーが弁護士づてに聞くには、嘉門は前夜、深夜3時まで自宅で飲酒して就寝。朝7時に起きて、行きつけのサウナに向かう途中で事故を起こしたようだ。

被害者の女性は軽症(その後に「全治1週間」の診断で通院中)で、嘉門は19日に釈放された。

検出アルコール濃度は呼気1リットル中0.25ミリグラム以上で「免許取り消し」と「(免許再取得が許されない)欠格期間2年」が決定。しかし「3年以下の懲役または50万円以下の罰金」が科せられる刑事罰については「未確定」の状況だ。(取材時点)

被害者とは弁護士を通じ、謝罪の意を示して話し合いをしており、民事裁判には発展しない見通し。だが致命的な人身事故を起こす恐れが大きい飲酒運転で逮捕され、本人が認めていることから、本誌は当連載でのインタビューの掲載をいったん、見合わせた。

嘉門もレギュラーのラジオ番組を「一身上の都合」で降板。6月、7月に東京、大阪で予定していた40周年コンサートは中止。新規の仕事依頼も、すべて断った。そのうえで、世間への経緯報告を「刑事罰や民事罰が確定次第、公表するつもりです」としていた。

ところが3月14日、ネットニュースで嘉門の事故が報道され、そこでは自宅近くの飲食店で飲酒し、運転して帰宅する際に起こした事故だと記されていた。前夜の酒が残る「無自覚の飲酒運転」でも罪だが「確信犯の飲酒運転」では言い訳にもならない。本人に面会を求め、3月27日午後、真相を問いただすことになった。

「自宅から約10分で着く温泉施設には何十回も車で通っていました。その途中にある寿司店によく立ち寄るんですが、いつもは絶対に、お酒は飲みません。でもその日に限り、いまとなっては『気の緩み』としか言いようがないのですが、冷酒180ミリリットルを、1本半、飲んでしまったんです」

当初の供述の「前夜の飲酒」は、虚偽だったことになるが……。

「最初の供述の際に、飲酒運転の重大さに『まずいことになった』と思い、本当に浅はかな考えで、噓をついてしまったんです」

ところが取り調べでレコーダー解析が進むなか、刑事に「ちょっと寄り道されてますね?」と指摘されると「もう隠せない」と観念。2月14日に白状したのだという。

しかしなぜ飲んだのか。過去に起きた、飲酒運転の大事故と悪質性、被害者、ご家族の悲しみや、怒りの報道を、どう眺めていたというのか。

「ニュースを目にするたび、戒めてはいました。運転の際には必ずノンアルで、飲んだら運転代行を呼んでいました。だから、ふだんなら絶対にしないことでした」

そう言いながら今回は「気の緩み」だと弁明する嘉門は、認識が甘すぎた。40周年公演を待ち望むファンも多かったはずなのに。

「被害者の方は事故直後に『あっ、嘉門タツオさん』と僕を認識されていました。本当に、お詫びしかありません。できることをさせていただきたいと思います。ファンの方にも申し訳ない限りです」

ところで、法的には2年後から、しかるべき講習の受講後に「免許の再取得」が可能になるが、どうするつもりなのだろうか──。

「もう一生、再取得はしません。死ぬまで車を運転しません。それは当然のことと認識しています」

仕事復帰の可能性や時期は?

「いまは、いつ復帰したいなどと言うべきではありません。心からの反省と、今後、僕になにができるかを考えようと思っております。現段階ではなんの説得力もありませんが、飲酒運転撲滅の活動を、より勉強したうえで、いつかさせていただければと思っています」

最後に再び深く頭を下げて辞去した嘉門は、およそ1時間後の16時過ぎに電話をかけてきた。

「取材後に考えたのですが、今日でお酒もやめようと決めました」

電話越しの嘉門の声は落ち着いていて、勢いで「断酒」と口走っているようにも思えない。

「妻の生前、僕が車庫入れで、車をこすってしまったときのこと、彼女が『もう運転やめたら?』と。そのときの彼女の口調が、いまになって思い返されるんです……」

自分の深刻な病状を知りながら、夫の行く末を案じ、ひたすら成功を願っていた妻・こづえさんに、嘉門はいま、次のように誓う。

「こづえさんには申し訳ない思いです。だいぶ怒ってると思います。でも怒っても前向きな女性でしたから、今日からの僕を見ていてくれるはず。そんな期待にも、応えなければいけないと思います」

40周年イベントも仕事もすべて白紙になった64歳。

「人間・嘉門タツオ」の贖罪を、私たちも見守っていきたい。

(取材・文:鈴木利宗)