結婚生活23年目にしてはじめて、夫婦の歩みが語られた。

県立高校から現役で東京大学文科二類に入学し、卒業後はNHK、テレビ朝日でディレクターを務めた泉。

’94年に司法試験に合格し、33歳で弁護士として歩み出す。差別と貧困をなくし、子どもを応援する社会にしたいと市民活動も始めた。

そのころに明石市内の異業種交流会で出会ったのが妻・洋子さん(仮名・53)だ。当時実家の料亭旅館の若をしていた彼女が、泉との出会いをこう振り返る。

「ちんちくりんの変わった人だと思いました。短い手足をバタバタさせて、ツバが飛んできそうな勢いでしゃべりまくる人。私の父が『あいつ若いし、使えるかもしれへん』と、実家のバーベキューパーティに呼んだんです。そこで泉は営業活動なのか、高校生にまで名刺を配っていて、周囲がドン引きしていました。

まあ、私も中学時代にボランティア部を創設して初代部長を務めて、福祉に興味があったので彼の考え方も共感できるかなと。ただ色恋とか『素敵!!』とか思ったことはないんです」

泉が彼女の印象を語る。

「地元の集まりで、隣同士になって私がキュンときたんです。あとは臭いけど、『世のため人のため』という信念が一致した。

彼女の料亭旅館は、バリアフリーという言葉が広がる前から段差を解消したり、車いすでも食事できるようにしたりしていたんです」

’00年、泉は、明石市に法律事務所を構えた。犯罪被害者の弁護や強引な取り立てをする消費者金融を相手にも戦った。そんな人権弁護士と7歳年下の洋子さんは、’01年10月に結婚した。

ところが、泉には妻に隠していたことがあった。それは、政治家になる夢があることだ。

ここからは洋子さんに語ってもらおう。

「泉の選挙は’03年の衆院選で兵庫2区から出たのが最初ですが、実は、その前に明石市長選にも手を上げているんです。どうしても市長になりたいと泉が告白したのは、私が妊娠7カ月のとき。しかも出産予定日は市長選の投開票日でした。いきなり選挙なんて言いだすから『そんなの聞いていない』と猛反対しました」

そして、こう続ける。

「泉は小さいときから『賢い、賢い』と言われて育ち、“井の中蛙”にもほどがあるような人生を送ってきました。自分は正しいことを言っているし、間違った行動もしていないから、きっと市長選も勝てるだろうという目算。

誰から見ても甘い考えでした。なんとか市長選を断念させて、対立候補のところに泉を連れていって頭を下げさせたんです」

ところが’03年の衆議院選挙では、洋子さんが選挙事務所の奥に陣取って選挙を取り仕切っている。

「あのときは長女が4カ月になったばかりでした。選挙前には『君は子育てが大変だから何もしなくてもいい』と言っていたのに、1週間もたたないうちに『友だちが手伝いに来ているのに、なぜお前は来ないんだ』と担ぎ出された。

そもそも私は、政治家なんてくだらないものだと思っていたし、うそのつけない泉は政治家には向いてないとも思っていた。でも選挙に出ると決めたら、みっともないから落選させられない。それに彼の選挙活動は、あまりに無策で口出しせざるをえなかったんです」

泉もこう振り返る。

「『夫は弁護士として社会活動をしていく』と妻は思っていたようなので、まさか選挙と言いだすとは予想外だった。だから妻は『結婚直後からあんたにはだまされた』と言ってました」

洋子さんに選挙活動の経験はなかったが、彼女の戦略が当たった。

「泉は『行動する弁護士』『世のため人のため』と弁護活動を書いたチラシを配っていましたが、“正義の弁護士”と何度も訴えても飽きられます。そこで泉には内緒で、20代の選挙ボランティアに『なぜ私たちが泉を応援するか』を語らせたチラシを作って配布しました。泉には知名度がなかったから、若い人がどんな思いで応援しているかを訴えたほうが有権者に伝わると思ったんです。

それに泉は演説も下手で、マニフェストに沿ってただ叫んでいるだけ。『勝つ気があるんだったら、人の心を動かす演説をしてください』と強く言ったこともあります」

妻のサポートもあり、泉は当選。国会議員として「犯罪被害者等基本法」など数多くの議員立法を結実させるが、’05年の郵政選挙で落選。弁護士の活動に戻った。

泉はこの後、もう一度妻をだます。

「弁護士活動を再開しても政治にかかわりたくて悶々としている私に、妻が『あんた、まさかまた選挙に出るなんて言わへんよね?』と。もう1人子どもが欲しいと思っていた私に、妻が『2人目の子どもが欲しいか選挙に出るか、どっちか選べ』と迫るから、うそをついてしまった。『もう選挙には出ません。子ども2人目お願いします』と。でも結局、長男が生まれて4年後に明石市長選に出馬した。確信的に妻をだましたんです」

この選挙で当選し、’11年、市長になるという念願をかなえた泉。しかし、市役所は敵だらけだった。

「市長になってすぐに予算配分を市民優先に変え、年功序列の人事も覆しました。そしたら市役所からも市議会からも総スカン。地元新聞を市役所で各課ごとに購買するのをやめるなどマスコミの予算を削ったら、ネガティブキャンペーンを張られて『ろくでもない市長』とマスコミにもたたかれまくりました。正直しんどかったですよ。でも3年目ぐらいから子ども医療費無償化などやりたいことが少しずつ形になり、市民に応援してもらえるようになったんです」

’19年1月、泉が全国版のニュースになった。明石駅近くの道路拡張工事を巡って、立ち退き交渉をしていた市の職員に対して泉が放った「火をつけて捕まってこい。燃やしてしまえ」という発言がメディアに流されたのだ。

「私を失脚させるために、ずっと隠し録りされていたんです。その発言は長い打ち合わせのなかの一コマで、怒鳴られた職員本人もパワハラと受け止めていなかった。でも被害者がいないとはいえ、発言自体はセンセーショナルな内容で、市役所への抗議の電話が鳴りやまない状況となりました」

妻からの「もう辞めたら」というひと言で、すぐに辞任を決意。辞任会見の前にはこんなやりとりがあったという。

「会見では、弁明と思われてもいいから言いたいことをまくし立てるつもりでした。

でも家を出ようとしたときに、当時中学3年生だった娘に『わたし、学校ですごく嫌な思いをしてるの』と言われたんです。そして『辞めるんだったら、みっともない言い訳なんか絶対にしないで』と。私は、世のため人のためにと市民のほうだけを向いて頑張ってきたつもりだけど、家族にはあまり目を向けていなかったんですね」

泉が市長の座を辞した直後から、子育て中の母親たちが中心となり、出直し選挙への立候補を求めて署名活動が繰り広げられた。手厚い子育て支援を続けてほしいと市民が熱望したのだ。

「集まった5千筆の署名のなかには『たとえ立候補しなくてもありがとうだけは伝えたい』など泣けるセリフが並んでいました。胸を打たれて、妻に『出直し選挙に立候補したい』と相談すると、家族会議で多数決をとることに。家族の前で頭を下げたら、妻は即行で反対を表明。小学校5年生の息子は『僕は出てほしい』と賛成にまわってくれた。娘はどうするかなと思ったら『私、白票でいい』と。これで立候補が許されたのです」

出直し選挙となった’19年3月の市長選挙では、相手候補にトリプルスコアとなる7割の得票を得て圧勝。市長に返り咲いた。

’23年に市長の座を降りるまで、子育て費用の無償化以外にも養育費の立て替え、障害者配慮条例、高校進学のための給付型奨学金・無料学習支援、ジェンダー平等条例など数々の実績を残した。

「私が行った政策の大半は妻からのアドバイスです。私が自信をもってやったといえるのは、12月28日までだったゴミの収集を31日までにしたことぐらいかな。家ではゴミ出し当番で、年末の大掃除のあとのゴミを家に残したまま年を越すのが嫌だった。それで市長になってすぐ、大みそかまでゴミ収集をするよう決めたんです。これ以外のほとんどは、妻と話したことを私が形にしただけ。妻と結婚していなかったら、それこそ10歳のときの誓いは形にもなっていません」

泉が市長を辞めて1年以上が過ぎた。再び洋子さんに語ってもらおう。

「最近の泉は、愚痴を言ったり、イライラしたりすることが格段に減りました。自己肯定感がすごく強い人で、独りよがりな面もあるから市長時代は議会や職員に対して『なんでわからないのかな』とブツブツ言っていました。

その一方で、今は『忙しい、忙しい』のオンパレード。東京と往復する仕事も増えたし、どんな仕事でもしっかり準備するタイプなのでそのしんどさや緊張感もあるみたいですが、楽しくやっているようです」

政策を作るのも妻と二人三脚でやってきたと泉は語っていたが、この夫妻にはかみ合わないことも多い。たとえば、あと2年で迎える銀婚式のこと。泉は目を輝かせてこう語る。

「先日親族で集まったとき、妻が自分の両親は銀婚式に海外旅行に行ったと話していたんです。もしかして、銀婚式の記念に旅行に誘ったら妻は一緒に行ってくれるんやろうか。2人で海外に行くなら計画を練らないとアカンでしょう」

洋子さんに聞いてみると、

「私は、銀婚式の記念でヨーロッパに行きたいと思っていますが、泉と2人きりでと思っているわけではありません。せっかくなので、『仲のよい友だちも一緒に』と言うかもしれません。そもそも社会貢献活動以外は趣味も合わないので、泉とはともにできることが少ないんです」

とつれない。

ちなみに泉の日常はこうだ。

「私は、目が覚めた瞬間に飛び起きるんです。パソコンの起動よりも速いですよ。5時半ぐらいに目が覚めた瞬間にフル稼働。ガーッと仕事をして、夜は、瞬間でシャットアウト。起きている間は、ずっとしゃべっています」

そんな夫に対して、低血圧で朝が弱いと言う洋子さんはあきれたようにこう語る。

「生まれ変わっても泉と一緒になるかと聞かれたら、多分結婚はしないでしょうね。一緒の墓にも入りたくないです。だってお墓の中でもうるさそうだから。死んだあとくらいはゆっくりさせてほしいのに、泉は墓石が揺れるぐらいしゃべっていそうです。なんだったら、墓参りに来た人にも話しかけるんじゃないかと思っています」

それに対して泉は、

「妻が『別々の墓がいい』と言ったときに思ったのは、『あ、生きているうちは大丈夫なんや』『死ぬまでは話を聞いてくれるんや』。ホッとする自分がいました」

泉は、とにかくくじけない。

「私は、最後は結果だと思っています。政治の結果は国民の笑顔や安心。すべての人が幸せになるのを見届けたいんです。人はどうせ死ぬんだし、死んだらゆっくり眠れる。生きているうちは精いっぱい生きていこうと思っています」

そう話す泉に、現在は兵庫県内で、社会活動団体を率いている洋子さんのこの言葉を贈りたい。

「実は、いずれ家族を解散したいなと思っています。離婚という意味ではなく、子どもたちが巣立ったら泉はしたいことをすればいいと思うし、私は私で福祉の仕事をまっとうする。いざというときに支え合えればいいかなと。ただ、泉も一生懸命に頑張っています。そんな彼と一緒にいたことは人生において面白かったと、最後は思うんじゃないでしょうか」

今日も、明日も、世のため人のためにと泉は走り続ける。熱血漢で時には誤解を招くこともあるが、最後に結果が出るまで──。

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