「活動の果実が勢揃いする又とないチャンスと考えましたので、ご迷惑かと存じますが、どうぞご容赦くださいませ」。取材を申し込むと、数十冊に及ぶ本とともに、1通の手紙が編集部に届いた。
翻訳家の加島葵さんは、’81年から40年以上にわたって、海外の児童書や絵本など、全37作品を翻訳してきた。代表作は、犬のセルビーが主人公の『おしゃべり犬の大騒動』シリーズ(カワイ出版)や『ゆかいなウォンバット』シリーズ、『こども地球白書』(ともに朔北社)。昨年の夏、最後の翻訳本『魔法のルビーの指輪』(朔北社)を出版した。
“加島葵”はペンネームで、本名は岡本康子さん(85)。翻訳が完成してから出版社に売り込むことも多いため、出版に至るまで10年以上かかった作品も少なくないという。
「と言いますのも、翻訳を始めた当初は、出版することをあまり考えていなかったんです。訳文をワープロで打ち、印刷してとじた本を自費で作り、ただ自分で持っていただけ。
ですから、翻訳が完成しているものでも、本にならないものもありましたし、出版社に持ち込んでから何年もたって出版されたものもありました。
『魔法のルビーの指輪』は、’10年6月に本格的に翻訳に取りかかった記録が残っているので、出版までに約14年もかかったことになりますね(笑)」
同作は、アイルランドで暮らす少女が、11歳の誕生日の前日、祖母から贈られた、願いをかなえるルビーの指輪により100年前にタイムスリップする物語だ。
ちょっぴりわがままで勝ち気な少女が、19世紀の貴族の館でメイドとして働きながら友情を育み、成長する話は、「少女が主人公の物語を楽しんだ世代の人は、みんなが面白いはず。映画になったらいいなと思います」と胸を張る自信作。
子育てが一段落した40代前半から翻訳活動を始め、ライフステージによって家庭環境が変化しながらも、40年以上もの長きにわたって翻訳の仕事を続けてきた。その原動力は何だったのかを尋ねると、岡本さんから驚きの答えが返ってきた。
「実は“加島葵”は私一人ではありません。大学の同級生11人による共同ペンネームなんです」
■「私たちは何もしていないじゃないか!」先輩の読書会に刺激を受け、翻訳スタート
“加島葵”のメンバー11人が通った学舎は、彼女たちが過ごした昭和30年代と変わらず現在も東京都文京区にある、「お茶の水女子大学」。女子高等師範学校として創立150年の歴史を誇る国立の女子大だ。
11人は全員、文教育学部英文科専攻。当時は、いちばん定員が多い国文科でも25人。英文科は15人の定員だったところ、入学したのは少し多めの18人だった。
「1学年1クラスでその人数ですから、何をやるのもクラス全員で動くような感じ。だから、自然に仲よくなるんです」
と出会いを振り返る石﨑宏子さん(85)。
「地方から上京した方も半分ほどいらしたので、『わが家に遊びにいらっしゃいよ』って誘うと、クラス全員来ちゃうのよね(笑)」
天野輝子さん(85)も思い出話に花を咲かせる。
「入学したばかりのころ、先輩が多摩のほうにピクニックに連れていってくださって、とてもあたたかい雰囲気の学校だなあって」
大学卒業後はそれぞれの道を歩んだ英文科の面々。年に1回のクラス会以外は年賀状のやり取り程度のつき合いだったという。
それが卒業から18年ほどたったころ、子どもの手が離れた人や、夫の赴任先から東京に戻ってきた人たちが定期的に集まり始めた。
さらに同時期、大学の先輩たちが原書の読書会をしていると知り、「先輩は勉強を続けているのに、私たちは何もしていないじゃないか!」と奮い立った。それが、“加島葵”の最初の芽だった、と石﨑さん。
「せっかく英文科を出たのだからなにかに生かそうと思い、グループ翻訳を選びました。まず、子ども向けのものからやってみようと。一人では、取りかかる気分になれなかったのです」
「個人よりグループのほうが楽しいし、よいものができると思いました」と島村素子さん(85)も同調する。
’81年の夏、最初に参加した7人で、「ななの会」を結成。共同ペンネームは、7人の名前の頭文字を組み合わせ、漢字を当てた“加島葵”に決めた。
首都圏在住の専業主婦を中心に出発した会には、のちに海外から帰国した人や英語の講師をしている人など4人が加わった。
出版社で働く大学の同級生から、日本ではオーストラリアの児童書があまりないと聞き、まずは大使館の図書館で作品を選ぶことからスタート。
原書をコピーして、章ごとに担当を分担。事前に各自で訳を準備し、週に1度集まって訳文を全員で検討、修正する。1冊分の訳が完成しても、2稿、3稿、最終稿と検討を重ねて、よりよい訳がないか探り続ける。
「久しぶりに英語に触れるのもうれしかったです」と岡本さん。
「何よりも、みんなとおしゃべりができるのが楽しくて。この日は英語の日と決めて、どんなにパートや家事で忙しくても最優先でした。検討や修正をするときは侃々諤々?やりますけれど、それは翻訳上のこと。終わったらパッと切り替えて」
午前10時に集合し、昼には各自持参した弁当を食べ、夕方5時まで。納期に追われることもなくサークル活動のようにのんびりとやっていたが、やがて出版したいと思うように。
そこで、営業担当の岡本さんが中心となり、訳が終わった原稿を出版社に持ち込み、出版に向けて交渉を始めた。すると、そのかいあって、’93年5月、最初の本『魔少女ビーティー・ボウ』(新読書社)の出版が決定した。
“加島葵”の誕生から12年、待望の初出版の心境を、石﨑さんは「初出版寿ぐごとく風薫る」と詠んだ。朝日新聞の日曜版に書評が載ったり、本を送った学校から感想をもらったりと、手ごたえも大きかったという。
続けて、やはりオーストラリアを舞台とした、犬のセルビーが活躍する『おしゃべり犬の大騒動』シリーズを出版。メンバー全員でオーストラリア旅行も決行した。『魔少女ビーティー・ボウ』の舞台となった街を訪ねたり、セルビーシリーズの原作者にも会うことができた。石﨑さんによると、
「原作者にお会いしたいとお願いしたら、本当に会いにきてくださって。しかも、サプライズだったのよね。主人公のセルビーも着ぐるみで現れて(笑)」
これをきっかけに、アイルランド、英国、イタリア……と20年で10回の海外旅行を実現させた。アイルランドでは、本屋をめぐって翻訳のための児童書を探し、それが最後の翻訳本『魔法のルビーの指輪』につながった。
■“男は仕事、女は家庭”と言われた時代。加島葵は“自分が主役の物語”が作れる場所
彼女たちがお茶の水女子大学を卒業したのは’62年。“オリンピック景気”と呼ばれた好景気がスタートした年で、就職は売り手市場。
それは、お茶の水女子大学卒でも同様。メンバーの大半は就職後まもなくお見合いで結婚し、仕事を辞めた。
「当時は、25歳までに結婚しないと売れ残りのクリスマスケーキ、と言われた時代ですから(笑)。女性の正社員は高卒までで、大卒の場合、正式採用ではなく嘱託になるんです。入社後2年ほどで辞めることになるからと。研修は早慶や東大の男性と一緒に受けさせてくれたんですけどね。お茶くみもしました」
と語ったのは岡本さん。“加島葵”の活動を通して、自分のよりどころができたと感じたという。
「ほかの活動もしたけれど、やはり、仲間と楽しくおしゃべりができる場所というのは、私にとってオアシス(笑)」
戸田徳子さん(85)は、自分のことを次のように語る。
「私は典型的な見合い結婚。独立心もなく、常に夫を立てて生活していました。
その後、夫の転勤が落ち着いて東京に戻ったのが50歳。これが最後のチャンスと奮起した私は、『社会の一員になりたい』と思ったんです」
中学・高校の英語の時間講師の職に就きつつ、’96年より“加島葵”の活動に加わることに。
「“加島葵”は、私にとって代えがたい存在です。今は遠方のシニアレジデンスに入っていて体がいうことをきかないけれど、できるものなら参加したいという気持ちは変わりません。これまでと同じように、仲間と一緒に死ぬまで続けたいですね」
子どもの手が離れた後、長年、編み物教室で先生をしていた島村さんは、3年間、夫の赴任先のブラジルに滞在中も、ずっと“加島葵”の活動を続けていた。
「新聞記者や建築家など、なりたい職業がなかったわけではないけれど、どこかで女はこれ以上無理だと思ってしまったんですよね」
夫の介護で忙しくなってからは、夫のデイサービスの時間だけ翻訳活動に参加していた。
「これから先のことはわかりませんが、この会に参加できて本当によかったと思っています。一つのことを長く続けられて、楽しかったです」
女性の社会進出や、仕事と育児との両立が難しかった時代。“加島葵”の活動は、母親業が落ち着いたメンバーにとって、自分のためのセカンドキャリアでもあった。
生まれ育った東京を離れ、北九州で12年暮らした石﨑さんは、手伝ってくれる親がいない環境で3人の子育てに奮闘。東京に戻ってからは、学会誌の編集事務のアルバイトを始めた。
「専業主婦だけど、やっぱり、ちょっとなんかやりたいと思って」
“加島葵”の活動は、さらに石﨑さんの世界を広げた。
「みんなで海外旅行に行くようになったのはこの活動がきっかけです。家族には、『取材よ、メンバー全員行きますから!』って説得したりしました(笑)」
一昨年夫を亡くした彼女にとって、“加島葵”は大切な場所だ。
「あそこに行けば話ができる。そう思える場所があるのは、とても大事。何を話しても悪意にとられる心配のない仲間は何よりありがたくて。今後、本が出なくても、この会は続けたいです」
市川春子さん(85)は、30歳から4年間、京都で暮らしたが、帰京後は義母と同居。家事と育児がほとんどの時間を占めた。
「家にばかりいると息が詰まるので、会の集まりはいい気晴らしになりました。子どもの手が離れてからは自分の好きなことをやろうと思っていましたし、翻訳活動が私の生活の一部になりました」
中学生のころから翻訳本を読みあさり、就活時は出版の仕事に就くことも考えた市川さんにとって、“加島葵”の活動は「夢にも思っていなかった」ことだという。
「仲間と本を翻訳して海外旅行までしちゃうなんて、私たちってすごい。私にも、自分が主役の物語ができたじゃん! って(笑)。平凡な人生でもいいやと思っていたけれど、少し華やぎました。本当に“加島葵”のおかげです」
一方で、“男は仕事、女は家庭”とされていた当時に、男社会の職場で果敢に働き続けたメンバーも。
天野さんは、卒業後、外資系の電子計算機の会社に就職。
「女性もバリバリやっている会社でした。『だから女はダメだ……』などと言われないように、私も頑張らなければ、と思いました。
講習会の先生になった後、プログラミングの教科書を翻訳・作成する部署に移り、結婚後も、契約社員として技術翻訳の仕事を69歳まで続けました」
情報処理用語集という分厚い用語集を駆使しながらの翻訳は、1冊に半年かかることも。
「常に最新知識が求められ、勉強が必要でした。でも、勉強よりも大切なのは世の中の子どもたちの心をよく見てあげることで、心を育むにはやはり本がいいな、と。だから、“加島葵”の活動はとても素敵だと思って。仕事は忙しかったけど、一生懸命に通っていました」
英語力を生かし、原作者とのやりとりを担当していたのは柿田紀子さん(85)。
「私はなんといっても英語が好きなんです。趣味として、自己研鑽として、いまも毎日英語の本を読んでいます」
結婚を機に一度仕事を辞めた後、夫の転勤でニューヨークに滞在。その後、札幌の大谷大学短期大学部、北里大学で英語の非常勤講師に。
「私は、学生を一人指名して翻訳させる授業が好きではなくて。グループで討論させ、皆で説明してもらうという形式をとっていました。“加島葵”の翻訳スタイルに近いかもしれません」
数年前にくも膜下出血で手術をしてからは一人で外出ができなくなった。
「みんな、人の気持ちをわかってくれようとしてくれる人たち。この会に参加して、本当によかったと思います」
■最後の作品と決めたけれど、意欲はつきない。未出版の翻訳原稿はあと段ボール1箱分!
メンバーのなかには、さまざまな事情で参加できなくなった人もいる。彼女たちの心に“加島葵”の存在はどう映っているのだろうか。
70歳を前にして介護のケアマネジャーとなり忙しく働いていた斎藤紀公子さん(85)は、自身の健康を考えて、「ここでやめます」と自ら宣言し、現在はシニアホームで生活している。
体調を崩してから外出が難しくなった加藤千穂さん(85)は、会を欠席しても活動には参加していた。
「みんなが翻訳した原稿をまとめていました。いつもみんなと会えて、わいわい、一緒に活動できるのは楽しかったです。いい仲間だと思います」
いちばん会を続けることに積極的だった川本光子さん(85)は、半年前に脳梗塞を患い、現在はつえを使って暮らしている。
「最初の本を出版したとき、オーストラリアの大使館員の方がとてもよくしてくださって。姉妹都市にも、大使館が本を買って寄贈してくださったんです。そういう出来事がすごく励みになりました。
自分が弱っているから特にそう思うのですが、活動に戻れなかったら生きている意味がありません。だから、会の活動に戻ることがいまの生きがいです」
万仲純子さんは、’18年に亡くなってしまった。
「いつもほほ笑んでいて、感情を表に出さない人でした。卒業後すぐに結婚されて、舅姑と同居しながらお子さん4人を育てていました。『仕事をしたいと思わなかった?』と聞いたら、『うん、そんなこと考えている暇もなかったの』と言っていましたね」
そう戸田さんが彼女の思い出を語ってくれた。『魔法のルビーの指輪』ができた際には、“加島葵”の活動に協力的だった彼女の長男に本を送り、最後の出版を報告したという。
ただ、未出版の翻訳原稿はあと段ボール1箱分ある。続編を読みたいという声も届いている。
「40年も続けてきた会なので、できれば火を消したくないなと思っています。やり続けていれば、さまざまな事情で出席できないメンバーも戻ってこられるかもしれない。今後も、一冊、二冊と出版できたらいいのですが」
と意欲を見せる石﨑さんに天野さんもうなずき、作家としての長所をこう語る。
「地球や環境問題について書かれた『こども地球白書』や『ちきゅうはみんなのいえ』(くもん出版)など、次の世代の人たちに考えるきっかけを与えるような作品を出してきたこと。わずかでもいい影響が与えられたのなら、自分たちも誇らしいなと思います」
そんな意義のある活動を続けてこられたのも、よい本を探す時間も、翻訳する時間も十分ある主婦集団だったからこそ。
「特に能力が優れているわけではなく、みんなわりと平凡な主婦だったんです。でも、みんなでやれば、ある程度まとまったことができる。そういう証しになってくれたらいいなと思います」
と石﨑さんが語るように、“加島葵”は11人で一人前。会長も副会長もいない、全員が平会員。誰かができないときは誰かが補う。自然に生まれた形が会を長続きさせてきた源だった。「40年間、一度ももめたことがない」と全員が口をそろえて言うのも納得だ。
思えば大学時代から、みんなで活動するのが当たり前だった。クラス全員が参加した文化祭の劇の題材は、当時最も世間を騒がせていた皇太子殿下(現在の上皇陛下)のお相手選び。候補には、元皇族の令嬢が名を連ねたが、皇太子が選んだのはお茶の水女子大生だったという筋書きを作成し、上演した。この劇は、コンクールで1位を獲得。
「川本さんが丸眼鏡をかけて、ガリ勉のお茶大生を演じたんです(笑)」
皇太子役だった岡本さんは、いまもセリフを覚えているという。
「『私はお茶大生を選ぶものであります』って言ったの(笑)」
どんなに優秀な成績でも、女性というだけで能力を存分に発揮することがかなわなかったあの時代。しいて逆らうこともなかったが、自身の選択に後悔がなかったかといえば、そうとも言い切れないのかもしれない。
常に失うことがなかった誇りと、少しの反骨精神とが生み出した“加島葵”が、彼女たちにかかった「女の子らしく」の呪いを解いたのだろう。
(取材・文:服部広子)