6月6日に公開されてからわずか1カ月で観客動員数319万人、興行収入44.8億円を突破した吉沢亮(31)主演の映画『国宝』。邦画実写作品では今年最大のヒットとなり、その勢いはまだまだ続きそうだ。
作家・吉田修一氏の同名小説が原作で、任侠の家に生まれ、抗争で父を失った吉沢演じる喜久雄が、渡辺謙(65)演じる歌舞伎役者・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の女形となり、やがて人間国宝へと上り詰めていく一代記だ。
渡辺のほかにも、喜久雄の親友・ライバルとして共に切磋琢磨していく半二郎の息子・大垣俊介を横浜流星(28)が、当代一の女形であり人間国宝の小野川万菊を田中泯(80)が演じる。
「二人藤娘」「曽根崎心中」をはじめとする歌舞伎の人気演目を吉沢と横浜が実際に演じたことも話題で、クランクインの1年以上前から稽古を重ね、すり足から扇子の扱いまで、基礎から徹底的に練習したという。
そんな話題の同作では、SNSなどで映画の登場人物に実在の歌舞伎役者を重ねる声も多くあがった。特に歌舞伎の家の出自ではない女形が人間国宝にのぼり詰めるという設定が、実在する女形の人間国宝・坂東玉三郎(75)の経歴と重なるため、”喜久雄のモデルではないか?”と考察する人も少なくない。
そこで、歌舞伎に精通している演劇評論家の上村以和於氏に話を聞いた。
「設定されてる時代や年配から考えて、さらに歌舞伎の世界ではない出身の女形といえば、誰しもが坂東玉三郎さんを思い浮かべますよね。ただ、映画を観て感じたのは、共通しているのは出自が歌舞伎の家ではないという点だけで、実際の玉三郎と主人公は全く違うし、ソリが合うところも特にないと思います」
玉三郎と喜久雄の共通点と違いについて上村氏は次のように話す。
「玉三郎は歌舞伎の家柄ではないけれども、任侠の家柄では全くありませんし、渡辺謙さんが演じる師匠も全然タイプや役どころも違う完全にオリジナルのキャラクターです。玉三郎は歌舞伎界の大物・14代目守田勘弥の養子になったわけですよね。
実際に養子となって跡継ぎになった人は玉三郎以外にもたくさんいるわけで、大立物の俳優の養子になれば、もうそれは歌舞伎の家に生まれた人と同じ扱いになるわけですから。だから、玉三郎も外から歌舞伎の世界に入った点と、女形として自身の努力によってトップになったという点では共通しますが、それぐらいだと思います」
原作者の吉田氏は、歌舞伎俳優の中村鴈治郎(66)の協力のもと3年間にわたり黒子として歌舞伎の幕内で学び、同作を書き上げた。
「聞くところだと、中村鴈治郎さんの父で、亡くなった坂田藤十郎さんのところに作者は随分通って歌舞伎のことを色々と勉強されたとか。そういう努力をされて作ったんだなということは作品を観るとわかりますよね。
かなり詳しくていらっしゃるだろうと思うので、逆にあまりストレートに”あれは誰だ”とわかるようなことは上手に避けて、妙なツッコミどころみたいなものを全く感じさせない作品になっていると思います」
その一方で、もう1人だけ実在の人物を連想させる登場人物がいたという。
「年老いた名女形(万菊)が6代目中村歌右衛門さんを彷彿とさせますよね。玉三郎からみたら歌右衛門は世代的にも当時いちばんの大物で大変な権威です。ましてや女形としてはなおさら尊敬と同時に1番怖い存在だったわけですからね。
そういう意味では一応連想はさせますけれど、実際の歌右衛門という方はあんな人ではありませんし、晩年もあんな風に妙なところで亡くなったりなんてことは全くありません。作者は巧妙に連想はさせるけれども完全にオリジナルの人物を描いたと思います」
では、玉三郎には実際に横浜流星のようなライバルはいたのだろうか?
「それは同世代として相当の人なら皆さんライバルですし、当然競い合うわけですからね。ただ、横浜流星さんが演じた役を思わせる実在の人物は特に思い当たりません」
芸に対する厳しさや孤独、時代を超えた存在という主人公の描写は、つい実在の人物を連想しがちだが、上村氏は作者の意図を次のように推察する。
「作者が自ずと、そういうところに女形の存在を置いてることは確かでしょうけれど、だからといって、それが”歌右衛門だ”などと個人名と直接関わることではありません。作者の方が歌舞伎を実に深くご存知だからこそ、こうした描き方をされたのだと思います。
実在の人物をモデルにしないからこそ、同作は作者の意図する歌舞伎の世界を見事に描き切ったということか。