1945年8月15日正午。昭和天皇が無条件降伏を受け入れる玉音放送を行い、太平洋戦争が終結した。
1946年1月、人間宣言によって“現人神”であることを否定した昭和天皇の戦後は、直接国民を励ますことから始まった。同年2月から8年半、米国の施政権下に置かれた沖縄を除く46都道府県を巡幸したのだ。近現代の皇室史に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう話す。
「国民から遠く離れた存在だった昭和天皇が、軍服姿から背広姿となり、国民一人一人と身近に接するスタイルは、象徴天皇のあり方を示すという意義がありました。
巡幸中の福岡県では、高齢の女性がそばにいるのに気づかず、昭和天皇を探し続けていたという逸話があるほどです。それほど天皇と歓迎した群衆の距離が近かったのでしょう。
巡幸中の昭和天皇は、お召列車に車中泊までされています。ここにも国民と共に復興を果たそうという強い意志が表れています」
1947年12月、昭和天皇は広島市を訪問した。13歳のときに被爆し、原爆の悲惨さをいまも語り継いでいる才木幹夫さん(93)は、当時をこう振り返る。
「私が通っていた旧制広島一中は全校生徒が校庭に集まり、拝謁を賜りました。困窮しているなか陛下が来てくださって、本当に勇気づけられた思いをしたことをよく覚えています」
そして昭和天皇は、自らの御名で始まった戦争で亡くなった人々への思いを、生涯抱き続けた。
■時間をかけてでも行動で示す姿勢を…
「病状が進行していたにもかかわらず、1988年の全国戦没者追悼式に臨まれたのは、戦争の犠牲となった人々への思いが表れています。
国内外で戦争責任を問う声が上がった事実はあります。しかし昭和天皇は逐一反論するのではなく、時間をかけて真意を知ってもらうという態度を貫いていたと思います。行動で示していく姿勢は、戦後の歴代天皇のスタンスの一つになっていくのです」(前出・小田部さん)
誠実に祈りに臨む姿勢は、平成、令和へと受け継がれていく――。