「本当に、奇跡だと思いますよ。こんなふうにお店がやれているのはもちろんのこと、私や妹、それに父が、いまも前を向いていられるのも、あのとき多くの人たちが助けてくれたからです。

本当にもう、感謝しかないんです」

忙しい朝の開店前。焼きたてのパンがスタッフの手で所狭しと棚に並べられていくのを眺めながら、店長の髙田舞美さん(32)は、感慨深げにこうつぶやいた。

大阪市阿倍野区で、間もなく創業5周年を迎える人気パン店「ブーランジェリーショー」。

ブーランジェリーとはフランス語で、職人自ら小麦を選び、粉をこね、焼いたパンをその場で売る店のこと。

奥の厨房では舞美さんの妹・川端優里さん(30)が、黙々と腕を振るっていた。

全粒粉と濃厚なバターが香り立つサクサク食感のクロワッサン、栄養価の高い希少な“古代小麦”を使ったこだわりのバゲット……、大きな窯の蓋が開くたび、芳ばしい香りがあたりに立ち込め、焼き上がったパンが次々に現れる。

次いで優里さんは、小麦粉と発酵バターを何層にも折り重ね、生地を作り始めた。薄くのばして四角くカットすると、自家製のりんごのコンポートをたっぷりとのせ、器用にクルンと包んだ。

その名も「幸せのアップルパイ」。一日に何度も焼き上げる、店の看板商品だ。

ブーランジェリーショーでは販売、営業、経理、運営などを長女・舞美さんが担い、パンの製造は主に次女・優里さんが担当している。そして、店のオーナーは姉妹の父・川端正悟さん(61)。

40年超のキャリアを誇る、生粋のパン職人。

その父のレシピをもとに父のDNAを色濃く受け継いだ優里さんが、抜群のセンスで焼き上げる絶品のパンを求め、店には連日、多くの客が押し寄せている。しかし、ここまでの家族の道のりは、決してではなかった。

最大の試練は開業目前だった。当初、店を構えたのは、同じ阿倍野区の別の場所。本当ならその場所で、現在の店がオープンする半年も前に開業の手はずだった。

しかし、オープンの4日前。あろうことか隣店からの“もらい火”で、店はあっけなく全焼してしまうのだ。燃え盛る炎とに帰す店を眺めながら、ぼうぜんと立ち尽くした父と娘たち。この瞬間、夢はついえたかに思えた。

だが、家族は諦めなかった。そして、舞美さんが語ったように、あまたの支援の手が差し伸べられ、“奇跡”が起きた。

今回は父と娘たち、パン職人の家族の夢と挫折、そんな禍福が何層にも折り重なった、アップルパイにも引けを取らない“幸せのブーランジェリー”の物語……。

■「頼むから、手伝ってくれへんか」と父は初めて、娘たちに頭を下げた

「パン屋って、そないにもうかる仕事じゃない。ただ、僕はもの作るんが好きで、それを誰かが食べてくれて、おいしいと言われることに喜びを感じる。長年続けられたのは、そういうとこなんでしょう」

父・正悟さんはこう言うと照れくさそうに笑った。

高校を卒業以来、パン職人の道を一筋に歩んできた。私生活では1989年、職場で知り合った千秋さんと結婚。正悟さん26歳、千秋さんは22歳だった。やがて、1993年に長女、1994年に次女、そして1997年に三女・麗奈さん(28)と、3人の子宝にも恵まれた。

そして2006年。正悟さんは兵庫県西宮市の、フランチャイズのパン店の店長になった。

「大手スーパーのなかに店舗を構えた“インストアベーカリー”でしたから、スーパーが休業の元日以外に休みはナシ。ほんま、あのころは休んだ記憶ないね(苦笑)」

妻と二人三脚で、早朝から深夜まで、働きづめの日々を送りながら「いつかは独自ブランドのパンの店を開きたい」と思い描いた。

それが夫婦の夢だった。

ところが2014年4月、がんを患っていた千秋さんが46歳の若さで早逝してしまう。まさに、その日が21回目の誕生日だったという長女・舞美さんは言う。

「専門学校を卒業して、エステの企業に就職、エステティシャンとして働き始めた直後でした。末の妹の麗ちゃんから『お姉ちゃんすぐ来て!』と電話をもらって慌てて病院に。家族4人が見守るなか、母は静かに息を引き取って……」

舞美さんいわく、千秋さんは「天真爛漫な人だった」という。

「闘病生活も長かったから、月に何度も、夜中に救急車を呼ぶような、つらい時期もありましたけど。基本的にはめっちゃ明るくて、いつも笑っている、それが母でした」

太陽のような存在だった母の死は、家族に暗い影を落とす。最愛の妻を亡くした正悟さんはひどく落ち込んでいた。仕事上でも、千秋さんは重要なパートナーだった。

「妻にはずっと店に入ってもらってましたから。しばらくは店のスタッフたちと、なんとか回してましたけど、経営は徐々に厳しくなってきて。

それで、娘たちに『頼むから、手伝ってくれへんか』と」

父は初めて、娘たちに頭を下げた。最初に応えたのは長女だった。

「ちょうど私、結婚したばかりで。大阪市の東住吉区で暮らしていたんです。そこから西宮まで毎日、片道1時間半かけて通いました」

元日以外、無休の店。職人かたぎで、店のことすべてを自分が見ないと気が済まない父は、休みを取ろうとしなかった。

「気付いたら、私もその“休めへんルーティン”に組み込まれてて(苦笑)。このままじゃあかん、と思い始めたころ、いちばん下の妹が専門学校をやめてしまって。彼女も放っておけないし店は人手が必要だし。それで誘ったんです。『麗ちゃん、一緒にやろう!』と」

母の死は、次女にも傷を残す。

「そのショックもあったん違うかな。

ずっと奥手だった私は、ちょうど母が他界したころ、変な男に引っかかってしまって……」

美容師になるのが夢だった優里さんは専門学校卒業後、地元の美容室に就職。だが、10代終わりに20歳近く年上の男性と出会い、家族の反対を押し切り“駆け落ち”。

「入籍直後の22歳で長女を産んだんですけど。その子が0歳のうちに離婚する羽目に。元夫の借金を肩代わりさせられたりして、ボロボロになって実家に戻り、姉に誘われ店を手伝うように」

父と3人の娘がそろって働くようになっても、母の不在は尾を引いていた。父は、かつてのように夢を語ろうとしなくなった。それが舞美さんには歯がゆく思えた。「自分の店、なんでやらへんの?」と率直な思いをぶつけたこともあった。

当時、家族が身を粉にして働いていた店は、地下のスーパーのなかにあった。

「母が他界してから、父はずっとしんどそうでした。優里もなんか離婚後の、メンタルがへこんだままの状態。店の空気も地下だからか、どんよりよどんでいるようで。

このままここにおったら、みんながおかしくなる、そう思ったんです」

舞美さんは物件を探し始めた。父母の夢をかなえたかった。自分の店なら、休みも取れると考えた。なにより、小さくてもいいから、明るく風通しのいい店で家族全員、心機一転を図りたかった。

「『地下から抜け出そう!』、その一心(笑)。それに、いまも人気のアップルパイですけど、当時から、すごくおいしいと評判で。父が作るアップルパイを、もっとたくさんの人に食べてもらいたかったから、人口が断然多い大阪に店を出そうと考え、父を説得したんです」

こうして、2020年。「ブーランジェリーショー」の阿倍野出店が決まった。グランドオープンは5月9日の予定だった。

■「早う消してください!」って消防の人にひざまずいて、頼み込んでいました

「その日は父と妹と、それに私の娘も開業前の店にいて。バゲットを試作してました。ところが、お昼前ぐらいかな、店内に急に煙が入ってきたんです」(優里さん)

「全員で慌てて外に出て。それで隣の店のほうを見たら、ブワーッと煙が出てる扉から、店主のおっさんが飛び出してきた。『もう、あかん』って。そんなん言うてる間に炎が。木造やから、そこからはあっという間やった」(正悟さん)

オープン4日前の5月5日だった。隣店から出火した炎は、瞬く間に正悟さんの店に燃え移った。

「私はそのとき、自宅でプライスカード作ってました。優里から『火事や、早う来て!』と電話きて。慌てて車に飛び乗ったんですけど。店の周りは緊急車両がいっぱいで交通規制が敷かれてて、なかなか近づけんかった」(舞美さん)

「消防車は10台以上来ましたね。消火活動が始まったはずやのに、なかなか消えへん。みるみる店は燃えていった。僕は『お願いしますから、早う消してください!』って、消防隊の人にひざまずいて頼み込んでました」(正悟さん)

「正直、そこまでこぎつけるの、めっちゃたいへんで。初めてのことやし、すごい気合入れて準備してたんです。それなのに……、その店が目の前で燃えていって。声、出ましたよ、泣きながら。同時に『これ、再建なんて無理やん』って、そういう思いも頭をよぎりました」(舞美さん)

父と娘たちは、通りの向かいのバス停から、ただただぼうぜんとしながら、消火活動を眺めていた。

「そのときの気持ち?『無』ですよ」

と優里さん。

「なんも考えられへん。ほんま頭のなか真っ白。『火、ぜんぜん消えへんやん』とかブツブツ言いながら、涙が勝手にあふれて。そのうち、なんやろ、『悔しい』という気持ちがどんどん募ってきてました」

鎮火後、真新しかった店は、見るも無残な状態に。天井は焼け落ち「サラ(新品)でそろえたんよ」と父が自慢していたオーブンも発酵機も、ほぼすべてが黒焦げに。3千万円の借金だけが残った。

打ちひしがれるばかりの娘たちを尻目に、まず立ち上がったのは正悟さんだった。そのときの父のことを舞美さんはよく覚えていた。

「『危ないから』って止められてるのに店に入って、少しでも使えそうなものを引っ張り出そうとしてましたね。そうかと思ったら、今度は夕方になると、父は不意に近所をうろうろし始めたんです」

そのときの心境を当人は「このままでは終われへん、ただそれだけを考えていた」と話す。

「ここで止まってしまったら、ここで決算してもうたら、もう自己破産や。それはあかん。次どうしたらいいんやろ? やり方なんか皆目わからへんけど、とにかくやるしかない、前に進むしかない、そんな気持ちだけでした」

うろうろと歩いてみた結果、正悟さんは燃えてしまった店にほど近いところに、大通りに面した一軒の空き店舗を見つけていた。それは、夕暮れどきに小さくる、道しるべのようだった。

(取材・文:仲本剛)

【後編】開店4日前に焼失したパン店姉妹の奮闘記。亡き母と父の夢がいつしか自分たちの夢にへ続く

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