【前編】「彼氏を下宿に入れて母に殴られたことも…」高市首相の“奔放だった”青春時代を徹底取材から続く

1984年、神戸大学経営学部を卒業した高市早苗首相(64・以下敬称略)は松下政経塾に入塾した。商売の神様といわれ、松下電器(現・パナソニック)を一代で築き上げた、故・松下幸之助が私財を投じて創設したエリート養成機関の松下政経塾。

大学の廊下に張られていた塾生募集のポスターを見たことがきっかけだった。

高市が政治家を志すようになったのは入塾から1年が過ぎたころだった。松下政経塾の3期上の先輩である山田宏参議院議員(67・自民党)が語る。

「高市さんと初めて会ったのは、1985年に私が東京都議会選挙に出馬したとき。塾生だった彼女は研修で私の陣営に運動員として参加してくれたのです。神戸から松下政経塾の2次試験の面接会場だった神奈川県茅ヶ崎まで、彼女が革ジャンにヘルメット姿で、バイクに乗ってやってきたという話は聞いていました。

どんな破天荒なコだろうかと思ったら、実際は真面目で、3カ月間、選挙事務所に寝泊まりしてしっかり働いてくれました。関西弁で人懐っこいけど、ドスが利いた雰囲気で存在感がありましたね」

選挙運動を手伝うなかで政治に興味を持ち始めたのかもしれない。その後、アメリカ連邦議会への派遣を経て、松下政経塾を卒業後は、大学教員に就任。キャスターとしてもメディアで発信するように。1990年から情報番組『朝だ!どうなる』(フジテレビ系)で共演した元キャスターの石井苗子参議院議員(71・日本維新の会)が語る。

「もはや簡単に“高いっちゃん”と呼べる立場ではありませんが、彼女はチャーミングで何事にも真剣で、恋愛も遊びも仕事も同じくらいの熱量で打ち込むタイプ。

バレンタインデーのときに、チョコレートはどこで買うのか、デートコースはどうするのか話し合っていたら、彼女が『万が一ってこともあるし、ホテルの予約が必要かも』と言い出したんです。でも、続けて『ボーイフレンドがおらへん。忙しくて時間がないねん』って。順番が違うと2人で大笑いしたことがあります。

でも当時から『総理大臣になる』と口にしていました。高市さんが総理就任挨拶のために政党の控室にいらっしゃったとき、『とうとう(総理に)なったね』と伝えました。すると、高市さんは『お姉ちゃん』と目をウルウルさせていましたね」

高市と『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)で激論を交わした辻元清美参議院議員(65・立憲民主党)もこう語る。

「20代で『朝まで生テレビ!』で共演していたころは、お互い独身だったから『誰かいい人、おらへんかな?』と話してみたり、野田聖子(元総務相)さんが結婚したときは楽屋で『先を越された』と2人で嘆いたりね」

若手論客として名を売った高市は1992年の参議院選挙で奈良県選挙区から出馬するも大差で落選。挫折を味わうが、翌1993年の衆議院選挙で奈良全県区から再出馬する。選挙戦には女性ならではの苦労があったと、元奈良県議の出口武男さん(89)は語る。

「べっぴんさんやし、飲めるし、話もうまいから県議会議員のなかには『高市早苗はオレの女だ』と吹聴する人も。ただ高市さんが頼ったのは、当時、表だけでなく裏の世界にも顔が利く“県政のドン”と呼ばれた人。

高市さんも彼を利用したし、彼も“頼ってくれるんやったら”という男の心理もあった。

地盤も看板もない女性が政治の世界で駆け上がるためには、そんな駆け引きが必要だった時代。それでつぶれていく人も多かった。選挙戦では『体を売って選挙に出ている』といった怪文書が対抗馬から撒かれたこともありました。でも高市さんは対立候補に一切反論せず、毅然と受け流していた。肝が据わっていますよ」

実は、高市は「選挙では決して個人攻撃をしない」という母・和子の教えを守っていたという。結果は見事初当選。32歳で国会の赤じゅうたんを踏んだ高市。かつて母が望んだ形と違えど、赤いバラが花開いた瞬間だった。

その後、政党を転々として、1996年には自民党に入党。その後、森喜朗元首相や安倍晋三元首相らの寵愛を受け、自民党のなかで、政界で輝きを増していった。

■娘を叱り続けた母は「早苗は首相になる」と

和子さんは、娘の結婚に気をもんでいた。

というのも和子さんは「嫁に行くまでは、娘の管理は親の責任」と口にしていたからだ。そんな高市は結婚観についてこう語っている。

《結婚はしたい、したい、したい。私、ワシントンでも結婚しかけてダメになったんだけど、その人、恋人のときは「このコ議会で働いてんだ」とかいって私のキャリアを認めて連れ歩いてたくせに、いざ結婚となったら仕事は全部やめてくれって言い出して、「家具だって磨けば1日かかるよ」だって。思わず「じゃ自分で磨けば」(笑)。見合いもしたけど、私が稼ぐからお手伝いさん雇わせてというとほとんどノー》(『CLASSY.』1992年4月号)

そんな高市が結婚したのは44歳のとき。2003年の衆議院選挙で落選の憂き目をみた時期だった。高市へのインタビューをもとに『高市早苗 愛国とロック』(飛鳥新社)を出版した作家の大下英治さんが語る。

「落選した翌朝に和子さんから『これは自分の幸せを考えるチャンスよ』と結婚を促され、高市さんはさまざまな会合で『いい方がいたらご紹介ください』とお願いしていました。そこに立候補したのは離婚経験があり、3人の子持ちの当時自民党の山本拓議員(73)。山本議員は『調理師免許を持っているので、一生おいしいものを食べさせます』とプロポーズしたのです」

和子さんは、娘の結婚を前向きに考えていたようだ。和子さんの友人がこう語る。

「大阪のホテルで行われた早苗ちゃんの結婚式に行ったとき、和子さんは『早苗はまったく料理ができないから、(調理師免許を持っている)山本さんなら丸ごと面倒みてくれそう』と喜んでいました。ようやく肩の荷が下りたのではないでしょうか」

2005年の衆院選で返り咲き、再び国会議員になった高市は、内閣府特命大臣、政調会長、総務大臣とキャリアを積んでいった。しかし和子さんは簡単には娘を認めなかった。高市は母の厳しさをこう語っている。

《私は週末には郷里・奈良の選挙区で活動していますが、何時に帰っても、母は起きて待っていてくれます。でもそれは、お疲れ様と労うよりは、結構厳しい“愛のムチ”といった方がいいでしょう。(中略)玄関で「ただいま」という私の声が小さいと、まず一喝されます。疲れたとか、辛いような顔をしても駄目。家族であっても集団生活なのだから、回りを不愉快にさせてはいけないというのが母の考え》(『よみがえる』2000年10月号)

前出の大下さんがこう語る。

「年老いた和子さんに会うために、高市さんは議員活動の合間を縫い、深夜の新幹線で奈良に帰り、翌朝の始発で上京することもたびたび。でも顔を合わせるたびに母親に叱られていた。和子さんは何歳になっても口は達者。

高市さんが言い返そうものなら平手打ちをする。国会議員になっても親にビンタをされる、大臣になっても叱責されるなんて聞いたことがありません」

そんな和子さんだが、娘の前とは異なる姿も見せていた。奈良市内のかつて自宅の近隣住人が語る。

「高市さんがまだ国会議員になる前のことでした。和子さんが『四柱推命の先生に占ってもらったら、早苗は日本を牽引する首相になる、と言われたのよ』とうれしそうに話していました。当時は、政治家になってもいないのに総理大臣なんて思いも寄らない話。冗談だと思っていたけど、和子さんが喜んでいたのが印象に残っています」

また高市家と家族ぐるみで付き合いのあった隣人女性が語る。

「回覧板を持っていったときに、和子さんはハサミを手に新聞の切り抜きをしていました。関節リウマチが悪化して『指がこんなんよ』と曲がった指をさすりながら、早苗さんが載った新聞や週刊誌の記事だけでなく、彼女に読ませるんだと、地元のニュース記事をこまめに切り抜いていました」

2013年に高市の政治活動を支えた父・大休さんが79歳で亡くなった。奈良県警を定年まで勤め上げた和子さんは、夫亡き後も、陰ながら娘を支えていた。

「早苗さんの選挙演説を聞きに行く和子さんと会ったことがあります。このあたりは坂道が多いでしょう。

駅までの急な階段を上りきったところで『しんどい、しんどい』と休んでいた。どこかワクワクした様子だったので聞いたら、『これから早苗を見に行く』と話していました」(前出・和子さんの友人)

2018年には和子さんが永眠。享年86。晩年の和子さんは、車いすの生活だったという。

「高市さんに最期まで厳しく接していたのは『まだまだ、あんたはやれる』という思いが和子さんのなかにあったためかもしれません。一方、高市さんは母への電話さえ気が重かったと漏らしていた。

亡くなったあと『お母さんがさみしがっていたよ』と和子さんの友人に告げられたとき、高市さんはにわかに信じられなかったそうです。そしてもっと電話で話していたらよかったと悔やんでいました」(前出・大下さん)

それから3年後、高市は自民党総裁選挙へ初めて名乗りを上げた。

■義理の息子に引き継いだ亡き母の教え

台湾有事を巡る答弁に端を発した中国の反発、“サナエノミクス”の副作用である高金利、高物価、高国債残高の「3高リスク」など課題は山積。国会答弁の準備のための“午前3時出勤”も話題になった。前出の辻元議員が語る。

「“午前3時出勤”も勉強熱心で念を入れて答弁したいタイプの高市さんなら不思議じゃない(笑)。ただ、大事なのは中身。ウルトラ右派なことばかりではまずいと思う。私たちは、普通の家庭の出でたたき上げ。奈良県出身と共通点も多く、長い付き合いなので、今、高市総理を見て疲れているのがわかります。総理就任直後、ばったり廊下で会ったときも『大変やわ、しんどいわー』と言っていました」

高市と夫の山本拓元議員は、一度離婚するが、2021年に再び結婚。今年2月に山本元議員は脳梗塞を発症したが、高市の介助もあり、つえをついて歩けるまで回復。今では食生活の面や、精神的支柱として高市を支えているという。山本元議員の長男で、高市の義理の息子である福井県議会議員の山本建議員がこう語る。

「私が’19年に福井県議会選挙に初出馬したときに、高市さんから厳しく言われたのが、選挙では決して個人攻撃をしないこと。対抗馬を意識して発言したり、批判したりするのは控えて、主張だけ訴えなさい、と教えられました」

選挙で個人攻撃をしない。初出馬のときから、和子さんが口うるさく伝えていた言葉を高市は息子へ引き継いでいたのだ。

赤いバラのようであれ──。

和子さんが幼いころから高市に伝えてきた言葉。男性と互角にやろうと肩ひじを張らずに、つねに女性らしい華やかさを忘れないこと。でも、自分が正しいと思ったことは毅然と、キリッとした棘があるように、と──。

ガラスの天井を突き破り、国の舵取りを任された赤いバラは、棘だけが目立っていくのか、それとも華やかに咲き誇るのか……。天国の和子さんが、目を光らせていることだろう。

(取材:山内太、小野建史/文:山内太)

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