「パッカ パッカ パッカ」

こんなオノマトペがピッタリな「江戸走り」。横向きになって半身で脚を動かし、長く楽に走ることができる“江戸時代の走り方”を基に考案された走法だ。

この“江戸時代の走り方”を11年にわたり研究し、「江戸走り」の一大ブームの火付け役となったのは、大場克則さん(61)。

研究資料として走り方を残すために投稿を続けていたショート動画が、その意図に反して2025年頭ごろからSNSで大バズリし、タレントの指原莉乃(33)をはじめ、著名人から小学生まで真似する人が急増。大場さんの関連動画の再生総数は2億7000万回を越え、株式会社AMFの「JC・JK流行語大賞2025」BeReal.部門では1位に選出。テレビニュースでも度々取り上げられるなど、大場さん考案の「江戸走り」は社会現象と化している。

動画を見ると、本人はいたってまじめだが、独特でコミカルな動きが目を引く。大場さんの明るくチャーミングな人柄と、BGMの相性も相まって人気を博しているのだろう。

そんな「江戸走り」ブームの火付け役で、最近は日本各地を飛び回って体験講座を開催している大場さんだが、元は武術の達人でもなんでもない。大手企業の研究職を務めたサラリーマンだった。

「江戸走り」誕生のきっかけは、サラリーマンのとき40代で始めた「ストレス解消のため」のマラソンだった。大場さんは2013年、友人に誘われて初めて参加した100キロマラソンの65キロ地点で膝が痛くなり、無念のリタイアをすることに。

「これがすごく悔しくて。そんなとき、『江戸時代の人は、1日100kmから160kmを普通に走れていた』と聞いて、“江戸時代の走り方”だったら自分も長く走り続けられるかもしれないと興味を持ちました。

当時の映像なんて残っていないので、2014年から国会図書館に通って研究を始めました」(大場さん、以下同)

浮世絵などから膝や体の角度、体の動きを工学的に徹底研究。さらに、現在放送中のNHK朝ドラ『ばけばけ』にも出てくる小泉八雲の名で知られるラフカディオ・ハーンの「人々は皆がみな爪先で歩いている」といった記録や、古文書に記録された当時の特殊な“歩行術”などを読み漁り、自身の体で再現して独自に研究を続けた。

「結局、2021年ぐらいまでは試行錯誤でしたが、なんとなく“こういう形かな?”と走り方の形が見えてきたので、それをまとめたのが今あるウェブサイトです。でも、ウェブサイトは、自分が死んでもしお金が払えなくなったら消滅してしまう。でもSNSならずっと残るんじゃないかな、と思って『研究資料』として投稿を始めました。2023年には、9年間の研究結果や考察のプロセスをメディアプラットフォームの『note』にも記録。これを残した瞬間『もう死んでも大丈夫』と思いました」

チャーミングなキャラクターとは裏腹に、興味をとことん突き詰め、研究熱心な一面……。「死んでもいい」とまで言い放つ大場さんとは、一体どんな人物なのだろうか。

■少女マンガをきっかけにできた“初彼女”が今の妻

1964年、大場さんは栃木県宇都宮市で生まれ、大企業勤めで地域の顔役だった父と、趣味で反物を織るような几帳面な母のもとに、3人兄弟の次男として育った。3歳上の兄と4歳下の妹がいて、真ん中。小学生の頃から理科が大好きだったが、「体育は5段階評価で“2”だった」という。どちらかといえば「ひとり遊びが好き」なタイプで、インドア派。

中学時代はQueenなど、当時流行った洋楽のレコードなどを聴き漁ったという。

勉強はできた方だったと言い、中高は県内トップクラスの学校に進学。

「早く田舎を出て都会に行きたかったんです」と本人は語り、その言葉通り上京し、理系では国内トップクラスの国立大工学部に進学した。

大学で所属したのは演劇部。主に、舞台美術や音響効果などの裏方を担ったそうだ。

「役者もやりましたが、周りからは『大根が腐った“たくあん役者”だな』と言われましてね(笑)」

「昔からウケをとることが好きだった」という発言の通り、言葉巧みに取材陣を笑わせる大場さん。取材中は紅茶を飲み、チョコケーキをほおばるスイーツ好きな一面も見せてくれた。

そして大学在学中、大場さんが20歳のとき、後に妻となる女性と運命の出会いを果たす。

「実は、高校時代、精神的に病んでいた時期、妹がたくさん持っていた少女漫画を読み耽っていました。『花とゆめ』とか『マーガレット』をガチで読んでいた“少女漫画オタク”の男子校生でしたね(笑)」

暴力的に感じた少年漫画より、絵もストーリーも綺麗な少女漫画のほうが「見てて落ち着いた」という。少年愛漫画の金字塔といわれた竹宮惠子作『風と木の詩』や、宝塚歌劇団の演目にもなった吸血鬼一族の物語の萩尾望都作『ポーの一族』などを愛読したという。

「『羽根くんシリーズ』著者の野妻まゆみさんのファンクラブに入っていましたが、それの、今でいう“オフ会”でたまたま隣に座ったのが今の奥さんです。

私は男子校出身で、大学も理系でほぼ男子校状態。生まれて20年彼女がいなかったもんですからね。『このチャンスを逃したら一生女性との縁はない』と思って声をかけて、今思えば必死でした。演劇部の芝居の舞台があったので誘ったところ、見に来てくれましてね。『来てくれたお礼に』とご飯に誘ったのが初デート。デートの口実、経験ない割には、結構頑張って頭を使うもんでしょ(笑)」

そうして猛アタックの末、交際に発展。大学卒業後しばらくして結婚し、妻との間に2人の娘に恵まれた。

「女が3人で、男は自分ひとり。家での私のヒエラルキーは1番下かな(笑)。自分的にはもう『“はい”か“イエス”か“喜んで”』しか返事はないですから。やっぱり奥さんが笑ってる家っていうのは、絶対に家庭が平和。奥さんが怒ると家の中が台風というか、嵐になりますからね。

家内安全を考えたら、奥さんがどれだけ気分よくいられるかっていうのはすごく大事だし、機嫌よくいてくれるっていうのは、ある意味、自分にとってもありがたいことですね」

■ 「部下との意思疎通」に苦戦したことが、人生の転機に

大場さんの人生の転機は、50歳を目前にした2012年ごろ。仕事上の人間関係で暗中模索した経験だった。

「当時いた会社で女性新入社員の指導をする立場になったのですが、信頼関係がうまく築けずいろいろと試しました。今思うと、私は昭和の人間なので“飲みニケーション”を試してみたり、どう考えてもNGなパワハラまがいな対応をしたり。そういったものが良くなかったんでしょうね。

何をしても噛み合わず、その時期が精神的には1番辛かったかもしれないです。ある意味自分が今までやってきた、正しいと信じてたことが“違うよ”っていうことに気がつくまでに時間がかかっちゃって、悶々としてたって感じですかね」

いわゆる“中年の危機”だったのかもしれないが、大場さんは持ち前の前向きさで問題の解決に向けて行動に出る。

「『今までのやり方じゃダメなんだ』と思ったから、『じゃあ、外に勉強しに行こう』と思ったんです。そこからセミナーに参加して心の勉強みたいなことを始めたら、それまでは家と会社の往復だったのが、それ以外の居場所となる“サードプレイス”が見つかったというか。新しいコミュニティが広がったことで、100キロマラソンに誘ってくれる友だちにも出会えたわけで、ここら辺がたぶん1つの人生の分岐点だったと思います」

最近全国各地で開催されている体験講座などで大場さんに出会った人たちは、「江戸走り」の面白さ以上に、口を揃えて大場さんの“人柄”を絶賛するが、大場さんの人柄はこうした努力によって少しずつ形成されていったのかもしれない。

2018年に長年勤めた会社を退職した後は、職業訓練でウェブデザインも学んだという大場さん。2020年からは建設機械のレンタル会社に再就職したが今年5月に退職。

気がついたら「江戸走り」がすっかり“本業”になっていたという。

■バズが終わっても“江戸時代の走り方”研究はまだまだ終わらない

大場さんの今後の目標は大きく2つ。1つ目の近い目標は「東海道五十三次」を“江戸時代の走り方”で走りきることだ。

「江戸-京都間の約500キロを江戸時代の記録のように1人が3日間で走れれば理想ですが、例えば、160キロを3人で走るとか、もしくは東海道五十三次を53人で、昔の飛脚が各宿場ごとにリレーしていたのを再現するとか。方法は未定ですが、このプロジェクトは今進めている最中です」

2つ目の目標は、科学として“江戸時代の走り方”を未来に伝えることだという。

「今はまだ、私の個人的なオタク趣味の研究の範囲でしかないんですよね。でも今後、“江戸時代と現代で走り方が違うようだ”という認識が広まれば、例えば歴史学者や運動工学の専門家などが研究に参入して、実際はこんな風に走っていたということが明らかになるのではないでしょうか。そして、それが100年先まで続いて、私たちの子孫が長く楽に走ることができる“江戸時代の走り方”の技術を活用できるようになってほしいと願っています。

研究が積み重なっていく過程で、今私がやっている『江戸走り』はたぶん否定されると思うのですが、それでいいのです。恐竜の形態が近年でもアップデートされ続けているように、科学とは、仮説を立てて、第三者から検証され、修正され、証明していくプロセスです。大切なのは仮説を間違えないことではなく、事実を明らかにすることです。そしてそれが将来に残ってほしいなという風に思っています」

バックグラウンドに違わず、骨の髄までサイエンティストの大場さんは現在、大学の協力のもとモーションキャプチャーで動きを分析するなど、さまざまな方向から科学的に“江戸時代の走り方”の研究を進めているという。

「SNSでのバズは、あと1~2カ月もすれば文化として消費されてしまうと思いますが、研究は続きます。世の中の人に『江戸走り』の存在が広まった勢いを冷静に活かして、今後の研究のチャンスに繋げられるように、地に足をつけて活動していきたいです」

「江戸時代の走り方を100年先の文化に残したい」と目を輝かせる大場さんの、“第2の研究人生”はまだ始まったばかりだ――。

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