「あの日から、15年ですね。世の中では次々と新たなニュースが報じられるので、常々『風化させてはいけない』と発信してきましたが、そう言っているオレ自身もまた、どうしても東北に行く機会は減ってしまっていて。

それでも、何らかの形で応援し続けようという意識はずっと持ち続けています」

こう語るのは、俳優で歌手の中村雅俊(75)。東日本大震災で甚大な被害を受けた故郷・宮城県牡鹿郡女川町へは年に2~3回帰っているという。

「“お金を使うこと”をテーマに、団体旅行をしています。おいしいものを食べて、飲んで、とことん楽しむ。それからみんなで、できるだけ見えを張ってたくさんお土産を買って。

やっていることはごく小さなことだけれど、地元でお金を使うことも復興支援の一つになるんじゃないかと思っているんです。とはいえ、実際はみんなで楽しむ“大人の修学旅行”みたいなものですけどね(笑)」

大学時代の同期との旅行だったり、熱血漢の高校教師を演じた『われら青春!』(1974年・日本テレビ系)の生徒たち、脚本家や番組スタッフらが集まったりするという。

「大学では50人ほどのクラスでしたが、この前はみんなの家族を含めて20人くらい参加者が集まりました。朝、東京駅で待ち合わせして、みんなで新幹線に乗って仙台駅まで移動します。駅からはチャーターした運転手つきの中型バスに乗って、観光しながら女川へ移動するんです。

宮城県をいちばん知っているオレが旅程を計画します。バスでは最前列に座って、マイク片手に『右手に見えますのは~』とガイドをするのが楽しくってね」

さながら修学旅行のように、お土産を買う時間もスケジュールに組み込んでいる。

「人気があるのは、女川駅から海に向かう商店街にある『高政』という店のかまぼこ。それから、東松島市の小野では、『おのくん』という有名な人形を何体も買い込むんです」

「おのくん」は震災の翌年、小野駅前応急仮設住宅にいる女性たちが、復興を願って自発的に製作を始めたぬいぐるみ。自分たちの未来を築くように、手縫いで作られているものだ。

「レストランに行ったり、物産店で買い物をすると、現地のみなさんが喜んでくれます。お店の人と話していると、お金を使ってくれるからではなく、『自分たちのことを忘れないでいてくれる』という喜びがあるんじゃないかと感じるんですよ。現地では『最近、あまり人が来なくなった』なんて話も聞きますから……」

徐々に震災前の日常を取り戻しているようにも見えるが、宮城県を車で移動していると、まだ復興が手つかずの地区も目に入り、被災地であることを突きつけられるという。

「復興は人口の多い場所からやっているため、どうしても格差が生まれるのでしょう。人口の少ない地区に行けば、いまだに倒壊した家がそのまま残っていたり、歪んだままの道路を見ることも。女川は町の7割が壊滅し、人口のじつに1割近い死者を出しました。人々に明るい表情と笑い声が戻ってきてはいますが、大事な人を亡くした人は少なくありません。心の傷は、そう簡単に癒えるものではないはずです」

2011年3月11日、地震発生時刻には、東京でドラマの撮影をしていたという。

「海の町・女川に生まれ育ったので、東北地方で大きな地震があったと情報が入った瞬間、まず心配したのが津波でした」

悪い予感は的中。

東北の沿岸部は、深刻な津波被害に襲われた。

「撮影の仕事を終えて、女川へ行けたのは4月に入ってからでした。地元の人たちから『いまごろかよー、遅えど!』って怒鳴られたっけ(笑)。本来ならお見舞いに人が訪れたら『ありがとう』と言われるところですが、地元出身のオレへの愛情表現ですね」

生まれ育った女川の町は津波に流され、あっという間に瓦礫の山となった。現地では、「空襲に遭ったら、こんな感じになるんだろうか」という声も耳に入った。

自分にできることは、ギター一本を携えて避難所に赴き、失意にある被災者の苦痛を一瞬でも和らげることだけだった。故郷・女川に対する愛情を込めて歌った。

「学生時代に作った『私の町』を歌いました。ただひたすら、オレが育った女川の景色を描いた曲です」

避難していた人たちは、津波に流されて失った町の風景を思い出したのだろう。中村の歌に聴き入り、涙を流した。

「稚拙な歌なんだけど、デビュー後にヒットした『ふれあい』よりも反応がよかった。改めて歌の持つパワーを感じました」

その後も、義援金を集め、トレーラーハウスを改造して子供たちのための簡易的な図書館として利用できたり、映画やアニメを楽しめる「ふれあいオレンジハウス」を寄贈するなど、復興支援に尽力。

大きな変化を感じたのは、女川駅の駅舎が完成した2015年3月のことだと振り返る。

「完成前から、駅から海に続く両サイドに商店街ができあがっていたんです。みんなゼロから立ち上がって、活気が出てきた。駅舎完成時のフェスティバルでは、女川以外からも人が大勢集まってね。

もともと女川は赤字路線の終着駅。津波で流されて、このまま廃線になってしまう可能性もあったはずなのに、見事に復活したんです。“ここからよみがえっていくんだな”と、女川の人たちの底力に胸が熱くなりました」

壊滅的被害を受けた女川は、生活の利便性を高めるために、住居や商店、行政サービスを集約するコンパクトシティを一から整備し始めたのだった。海に近い1階部分に商店街、少し高台になった2階部分に市役所や学校などの公的機関、そして3階部分にあたるエリアには住居が建設された。

「きれいで新しい町ができあがって、すっかりオレの知っている女川の風景ではなくなったけど、これが復興するということなんだろうと思います。ただ、あのころと変わらない女川も、しっかりと残っているんですよ」

東北の海沿いを車で走ると、津波の教訓から大規模な防潮堤が建造され、すぐ先の海がコンクリートで見えない地区があるという。

「ところが、女川からの海の景色は昔のまま。大規模な防潮堤を作らない選択をしたのは、女川らしいよなって思います」

海と共存する町を肌で感じながら、中村は育った。

「60年以上前ですが、海に入って1mも潜れば、ウニやアワビが取れました。海産物を積んだトラックが水揚げ場から加工工場に移動するときは、荷台が揺れると、積んだ魚が地面に落っこちる。その魚を焼いて食べたことも(笑)。

女川に海はつきもの。地元の人は甚大な津波被害に複雑な思いはあるものの、けっして海を憎んではいないんじゃないでしょうか」

被災地に足を運び目の当たりにした、精いっぱい生きる人々の姿からは、多くのことを学んだ。現在公開されている自身の初監督作品『五十年目の俺たちの旅』のルーツとなる作品『俺たちの旅』(1975年・日本テレビ系)のセリフが思い出される。

「オレが演じたカースケの口癖は『毎日を精いっぱい生きればいいのさ』。何十年も前に自分が口にしていたセリフだけど、たしかにそのとおりだなと。人生って、日々の積み重ねですから。震災を機に、この言葉の重さを痛感しました。いまでは中村雅俊の人生訓になっているんですよ」

震災を風化させないために、私たちにできることはなんだろうか。

「“もう15年”という声もありますが“まだ15年”だと思います。

町に日常が戻ってきても、心の深い傷が癒えるまでにはまだ時間がかかるでしょう。先日、ナレーションの仕事で久しぶりに津波の映像を見て、あの日の感情が呼び起こされました。

みなさんにも、あの日に抱いた気持ちを、もう一度思い出してほしい。そうすれば震災に襲われたときの自らの行動、そして被災地に対する次の行動が変わってくるはずですから」

これからも心を寄せ続ける。愛する故郷が“心の復興”を遂げるまで――。

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