手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫。3人の運命の交差点ともいえる「トキワ荘」に集った2世たち。

偉大な父たちの素顔や創作への執念、今だから笑える家族の絆などを語り合った。

ギシギシギシ。レトロなアパートの急勾配の階段を上ると、廊下の両サイドに共用トイレや共同炊事場、4畳半の居室が並ぶ。

手塚るみ子(以下、手):階段を上るとき、あえてギシギシという音が出るように、忠実に再現したそうです。小野寺丈さんは、トキワ荘マンガミュージアムに来られたのは初めてですか?

丈:そうなんですよ。でも、中学生くらいのとき、トキワ荘のことは父(石ノ森章太郎さん)から聞いていたので、取り壊される前に本物を見学したことがあります。

赤塚りえ子(以下、赤):共同炊事場の流しを、父と石ノ森先生がお風呂がわりにしていたそうですね。

東京都豊島区にあるトキワ荘マンガミュージアムは、手塚治虫さんの入居(昭和28年)を機に、のちに人気漫画家となる若者が全国から集ったトキワ荘を、再現している施設だ。

2月某日、同施設に手塚治虫さんの長女・るみ子さん(61)、赤塚不二夫さんの長女・りえ子さん(61)、石ノ森章太郎さんの長男で俳優の丈さん(60)が集った。

手:丈さんとは、石ノ森先生のお別れ会のときに少しごあいさつしましたが、父のことなど、お話しする機会はこれまでなかったですね。

丈:はい。ボクが何か言って迷惑をかけたくないから、あえて父のことは語ってこなかったんです。

赤:でも、今回はなんで?

丈:今年1月に還暦を迎えて、父が亡くなった年齢に追いついたことで心境が変化し、今後は少しずつ、父のことを語っていこうかと。

手&赤:いやいや、たくさん語ってもらいたいですね!

父親たちの息遣いを感じながら、幼少期の思い出から語り始めた。

手:石ノ森先生は、ご自宅でお仕事をしていたんですか?

丈:ええ。記憶に残る父の姿は、漫画を描いている後ろ姿ですね。

手:そうなりますよね。私も父の背中を覚えています。

赤:私が思い出すのは、パパが遊んでいる姿。パパはスタジオ・ゼロ(トキワ荘メンバーが中心になって設立したアニメ制作会社)でも遊んでいたようで、銀玉鉄砲の撃ち合いをしていたんです。

それで、あの温厚な藤子F先生(藤子・F・不二雄)に「うるさい!」って怒られて、近所にある自宅に移動。家でパパがスタッフたちと遊びの続きをしているのを見てたら、偶然、玉が私の鼻の穴に入ってしまって、パパにピンセットで取ってもらった記憶が(笑)。

手:うちは家と虫プロが同じ敷地内。スタッフが何十人といる環境でしたね。

実写とアニメが合成されたテレビドラマ『バンパイヤ』(1968年、フジテレビ系)もうちの庭で撮影していて、セットの一部が庭に転がっていたし。

丈:アシスタントは夕方に来て、朝方に帰るから、父はすごくおなかが減っているんですよ。父はいろんな袋麺を買いだめて、お湯の代わりに味噌汁を入れたりして、オリジナルラーメンを作るのが好きで、ボクも弟も朝からラーメンという日が多かったですね。

手:大人に囲まれた環境だったから、兄(手塚眞さん)は年の割に大人びて、生意気な口もきいたりするので、編集者に、父が見ていない隙に池に落とされたり。

赤:かわいそう(笑)。

手:人の出入りが多いので玄関の鍵も開けっぱなし。すると、お酒を飲んで終電を逃した編集者が「手塚さんちなら開いている」と泊まりにくるから、玄関の鍵を閉めるようになったんですよ。それでも「トイレの窓なら開いている」と入ってくる人も。その編集者は出禁になりました。

丈:うちの父は忙しい中でも、一生懸命、家族との時間を作ってくれました。父がいつもネーム(漫画の下書き)を描くのに使っていた、「ラタン」という喫茶店の父の特等席で、ケーキやコーラを頼んで、帰りに本やレコードを買ってもらうのが大好きだったんです。

手:私の父も石ノ森先生と一緒で、家族の時間を大切にしてくれました。

必ず夏は家族旅行に連れて行ってくれたり。

赤:忙しい先生方に、よくそんなお時間あったね。

手:でも最後まで来なかったこともあるし、旅行先でも締切りギリギリまで漫画を描いて、ついてきた編集者が原稿を持ち帰るようなこともありました。

赤:わかる。私も17歳のときに行ったセブ島では、パパは仕事で2日ほど遅れてやってきました。しかも赤塚不二夫が子供たちと行く、セブ島ツアーで、宝探しなんかもする健全な旅行だったんですが、パパは昼間からずっと飲んでいました。

丈:赤塚先生らしい。

赤:パパが来るまでは、21歳のパパのカノジョと相部屋に。

手:えー! 嫌じゃなかったの?

赤:全然。パパはいつも人に囲まれて、いろんな人との付き合いも多かったから、私の中では“公共物”というイメージ。

帰宅するのは深夜4時とか遅いんです。寝ている私に「女にフラれた」と愚痴をこぼしたり、「りえ子、ビールをつぎなさい」と起こされたり。

両親ともに宵っぱりで朝起きれないから、幼稚園にもほとんど通いませんでした。

パパは私が小学校になったころには、ほとんど家にいなくて。小学校で先生がみんなに「赤塚さんのお父さんから漫画の描き方を教えてもらいましょう!」って言ったときは、すごく切なくなったんです。

丈:一方、当時はまだ漫画の地位が低かったですよね。学校の先生も平気で「漫画を読んだらバカになる」って言っていました。たまたまボクと目が合ったら、気まずそうしていましたよ。

手:2世の子たちは、みんな似たような経験あるよね。

赤:なかでも赤塚漫画はPTAの敵でしたから。

丈:おそらく、ちょうどその時代に始まったのが、『仮面ライダー』(1971年、現テレビ朝日系)でした。

赤:私、当たりキャップを集めたら仮面ライダーのワッペンがもらえる「パイゲンC」を飲んでた!

丈:あった、あった。ボクはカードのおまけがついた「仮面ライダースナック」が好きで、自分の小遣いで買ってました。レアカードが当たったときは、すごくうれしかった!

手:え? おうちにサンプルとか送られてこなかったの?

丈:うちの親が偉いのか、自分の小遣いで買えって。

今思うと、裏から手を回してもらえばよかったって思います。

手:うちも『鉄腕アトム』のいろんなグッズが家に送られてきたけど、母が全部与えたらろくなことにならないと、どこかに隠していました。子供が悪さしたら父の名前が出るから、母はしつけには厳しかったんです。

丈:うちも。逆に父はすごくやさしかったんです。一度、弱いものいじめのようなことをしてしまって、ビンタをくらったことがありましたが、手を上げられたのはその1回だけでした。

※手塚治虫/手塚プロダクションの「塚」の、正しい表記は旧字体

【後編】「赤塚先生には“ホテル行こうか?”と誘われた(笑)」手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫 伝説漫画家の子供たちが明かす“豪快すぎる伝説”、家族の交流秘話もへ続く

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