日雇い労働者の町として栄えた西成にいまあふれるのは、1泊1,000円前後の簡易宿泊所――通称“ドヤ”に暮らす流れ者や、生活保護を受ける老人、そして路上生活者たち。そんなこの町の真ん中で、変わらぬ味を供し続ける夫婦がいる。
大阪市西成区。この西成区東北端、およそ0.62平米に及ぶ一帯は、古くは「釜ヶ崎」、いまでは「あいりん地区」などと呼ばれる場所。南海電鉄・荻ノ茶屋駅から徒歩10秒の場所に「甘党・喫茶ハマヤ」はある。名物は一杯・320円のぜんざいだ。
「いまでこそ、きれいくなったけど、昔は『荻之茶屋は駅降りたとたんに臭い』と言われとって。皆がそこらじゅうで立ち小便してたからな、その臭いで空気がよどんでた。そら、もう悪名高かった」
苦笑いを浮かべながら濱口博さん(69)は当時を振り返った。ハマヤは1951年、博さんの母・秀子さん(1999年没・享年82)が夫・守美さん(1990年没・享年77)や家族の助けを借りて、現在の場所に創業。肉体労働で疲れた労働者たちが甘味を求めるのは自然なことだった。ぜんざいはもちろん、夏には、かき氷も飛ぶように売れた。
「当時、町の商店街には芝居小屋もあったりして。とてもいい雰囲気の下町やったと、おばあちゃん言うてはりましたよ。いい下町やった、と」
その時代を知らない妻の陽子さん(64)は、義母から聞かされた言葉を何度も繰り返した。物心ついたときから、この町で育った博さんはこう語る。
「そのころから日雇いのおっちゃんらはようけいてたし、昼から酒飲んで暴れてはる人もあった。別に怖くはなかったね。道路で寝てるおっちゃんの横で、普通に遊んどった。それが当たり前やった」
いっぽう、陽子さんは高級住宅が建ち並ぶ兵庫・西宮の生まれ。父親は大手製鉄会社のサラリーマン。小学生のころの夢はバレリーナ。中学からは“お嬢様学校”として名高い神戸女学院に入り、大学まで進学した。
「同級生たちはやっぱり裕福な家の子が多かったですね。
大学進学のころ、運命の出会いが待っていた。淀川の河川敷で催されたアングラ劇を鑑賞したとき。すぐ近くの席に大阪芸大の学生だった博さんが座っていたのだ。
「芝居が終わって駅までの帰り道で『1人で見に来たん?』とか、声かけたんちゃうかな。でも、声かけたんは僕ですけど、最初に見初めたんはそっちやからね」
照れくさそうにこう言って、妻を見つめる博さん。その言葉に、陽子さんも少し照れたように笑った。
「そうね……それまで私の周りにいた男性というのは、やっぱりお坊ちゃんが多かった。その点、博さんは自分をしっかり持ってはって。信用できるな、いい人だな、と。私の目をまっすぐに見ながら話す言葉や笑い声がとってもセクシーやった。この人と一緒におったら、欺瞞的な自分ともさよならできると思うたの」
20歳の若き陽子さんは、その日から博さんに夢中になった。
「それまで釜ヶ崎とか西成なんて名前も知らんかって。だから構えることもなく、普通に来られましたね。町を歩いても、怖さは感じませんでした。博さんに会える喜びが大きすぎて、いろんなものが目に入ってこんかったんかな。ただ、家々に、塀や門がないのが不思議でした。『玄関開けたらもう道路!?』って(笑)」
すぐに結婚を意識した2人。だが、陽子さんの両親、とくに父親が猛反対をする。
「幼いころに脊椎カリエスを患った博さんのことを『体の弱い男はあかん』と。もちろん、博さんの実家のあったこの町のことも理由の1つ。それに何より、会社勤めをしていた父は、商売人の家を見下すようなところがあって」
駆け落ちも辞さない陽子さんに対し、博さんは冷静だった。
「親は、就職先で新たな出会いもあるやろ、私の目も覚めるやろ、そう考えてましたね」
しかし、陽子さんの気持ちは、5年間、みじんも揺るがなかった。そして陽子さん25歳のとき、ついに父親が折れ、結婚の許しを得た。双方の両親と新郎新婦だけの簡単な結婚式。会場となったのは、若い2人の新居でもある博さんの実家だった。
「昔はね、もっと活気があったしね。個性的なお客さんがとっても多かったんよね」
住人や客たちとの思い出を、おもしろおかしく話してくれた夫婦。だが、そうはいっても陽子さん、元は神戸女学院出身のお嬢様。いまと違って、不法投棄のゴミが散乱し、悪臭が立ち込めていた当時のこの町で、どうして暮らしていくことができたのか。
「たしかに、汚いよりきれいなほうがええですよ(笑)。あのころなんて、店の前、掃いても掃いてもすぐゴミだらけになるし。