52歳の若さでこの世を去った有賀さつきさん、貴乃花親方を陰から支える花田景子夫人、3月いっぱいで終了する『あさイチ』の有働由美子アナーー。最近、ニュースでよく耳にする“女子アナ”を取り巻く環境に、身につまされる思いを抱いた読者も多いはず。
近藤サト(49、以下=近藤)「私はアナウンサーを完全に辞めていた時期はないんです。退社して、最初の結婚生活を送っていたころも、ゆるくではあるけれど続けていました。いまは、ナレーター業は死ぬまで続けたいと思っているの」
寺田理恵子(56、以下=寺田)「サトちゃんらしい。私は再婚後14年間、専業主婦だったの。その時期には『いまできること』を考えて、好きな手芸の腕を生かして、匿名で在宅ワークをしたり」
ともにフジテレビ出身で、先輩・後輩の間柄。当時、「内定競争倍率は数千倍」といわれた難関を突破し、花形職業の座を射止めたのは、寺田さんが'84年、近藤さんが'91年のこと。
'80~'90年代はバラエティ番組が全盛。当時、「楽しくなければテレビじゃない」を旗印に、お茶の間の圧倒的支持を得たフジテレビで、寺田さんは元祖アイドルアナとして一躍人気者に。
近藤さんはバラエティのほかに、『FNNスーパータイム』などのニュース番組に出演。報道アナウンサーとしてのイメージが定着していく。
その後、2人はともに寿退社。
一方、近藤さんは'98年に歌舞伎俳優の故・坂東八十助さん(のちの三津五郎・'15年逝去)と結婚後、1年あまりで離婚。'03年に会社経営者と再婚し、1男をもうけている。
結婚・離婚・再婚など、2人の私生活は、常に世間の注目の対象に。女子アナだからこその試練ともいえるが、それらの体験はその後の人生に生かされているのだろうか。
寺田「私はマスコミに追いかけられて嫌な記事が出ても、たいていは『あーあ』って忘れちゃうタイプなの。女子アナって追いかけやすいと思います。芸能人のように、所属事務所がガッチリと守るというわけでもないし」
近藤「私も週刊誌の直撃取材を何度か受けて、もう驚かなくなった。友達は『ひどいこと書くね』って言うけれど、いつしか『これも仕事なんだなぁ』と思えるようになりました」
寺田「私は表に出ている人間だからしょうがないけれど、それが家族に及んだときはつらくて。主人が亡くなったとき家族葬にしたんだけれど、『誰も来ないお葬式』とか書かれたり。
近藤「家族のことまでっていうのは、すごく困りますね。だからもう、書かれないようにしよう!(笑)波瀾万丈という意味では、私もさまざまな経験をしました。でも、読者の方だって同じなんだと思います。いま母校の大学で教えているんですが、学生さんの母親と私は同じ世代。それで、『母親の一代記をインタビューして舞台化する』という課題を出したの。原稿を読んでいると、そこには病気や介護から嫁姑の確執まで、もう10人いれば10通りの深い人生があって。『この方は私より波瀾万丈だわ』とか、泣きながら添削しているの。そういう意味で、教えていても学びがたくさん」
寺田「田丸美寿々さんと、あるパーティでお会いしたとき、『60になったら収穫の年』とおっしゃったの。その言葉がすごく心に残っていて。いまのうちに種まきをしておきたい。そのために実家で、子育てサロンや紅茶教室など、大人の学びの場を開いたり。地域に貢献することが、これからの高齢化社会で大切になってくると思うんです」
近藤「すごーい。
寺田「サトちゃんみたいにしゃべる仕事がずーっとあるってすごいことよ」
近藤「ありがたいです。でもいいことばかりでないのも事実。女子アナは、見た目や服装も含めた自分の個性に、8割の人から『いいね』をしてもらうことが大事。1割が『いいね』じゃいけないんです。でも、没個性の女子アナはフリーになったときに埋もれちゃうんです。だから『武器になるような個性がない』と模索している方も多いの」
寺田「確かにそう。女子アナは資格じゃないので、プラスアルファを打ち出さないと生き残れない」
近藤「寺田さんもそうですが、局を離れても常に新しいチャレンジをして、アナウンサーという経験をベースに何かを打ち出したいという人が多いですよね。それは素晴らしいことだと思う」
寺田「女子アナの共通点は“行動力”かしら? パッと思いついたら、行動するのは早いかもしれない」
近藤「バイタリティあふれる男っぽい方が多いですよね」
寺田「確かに。でも、その行動力が波瀾万丈な人生を招いてしまうのかな(笑)」