(提供:吉本興業)
「切ないほどの純愛、2人の人生において、それが“最初で最後の恋”でしたから」
評伝『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)の著者で、ノンフィクション作家の砂古口早苗さんが語るこの2人とは、「吉本興業」創業者・吉本せいさん(享年60)の次男、穎右さんと、昭和のスター歌手・笠置シヅ子さん(享年70)。
吉本せいの生涯をモチーフにした連続テレビ小説『わろてんか』では、主人公・北村てん(葵わかな)が、跡取り息子の隼也(成田凌)とつばき(水上京香)の結婚に反対して勘当。
「ドラマと同様に穎右さんと笠置さんの恋愛も、最初は周囲から反対されていました」(以降、砂古口さんによる解説)
昭和18年6月、笠置さんが名古屋「御園座」で先輩役者の楽屋を訪ねたとき偶然出会ったのが、その当時、早稲田の学生だった穎右さんだ。
「笠置さんは松竹楽劇団のスターでしたが戦況悪化で劇団が解散。フリーのジャズシンガーとして活動するも“敵性歌手”のレッテルを貼られて、やむなく軍需工場などへ慰問で日銭を稼いでいました」
一方、穎右さんは吉本の跡取り息子とはいえ、まだ19歳の“社長見習い”だった。
「お互いにひと目ぼれ。とくに笠置さんは、その長身の貴公子然とした雰囲気に言葉を失ってしまったとか、グレーの背広をシックに着こなす端麗さは、まるで米国俳優のジェームズ・ステュアートだったと自伝に書いていますが、このときもらった名刺は生涯大事に持っていたそうです」
穎右さんも、昔からの笠置さんの大ファンだった。
「とはいえ9歳の年の差ですから、姉と弟のような関係でスタート。当初、笠置さんは、穎右さんが自分を女性として真剣に愛していることにしばらく気がつかなかったほどです。それでも、東京でお互いの家を行き来するうちに、一直線に恋の炎を燃えあがらせたのでした」
翌19年暮れには結婚の約束を交わすが、空襲が始まり戦況が悪化するなかで、穎右さんは、なかなか母親に報告することができずにいた。
「しかし漏れ聞こえてくるかたちで、せいさんの耳に入ってしまいます。当然、激怒。結婚を反対されました」
まだ学生の身、2人は釣り合わない……。
「せいさんは生涯で8人の子どもを産んでいますが、長男は夭折。元気に育ったのは3人の女児と33歳で出産した穎右さんだけでした。その約3カ月後に夫の秦三を亡くしていますから、並々ならぬ愛情をそそぎ込んでいたと思います。しかも彼は母親と同じぜんそくもち。徴兵の対象外になるほど体が弱かった」
昭和20年5月、空襲でお互いの東京の家が焼失し、住む場所を失ってしまうが、東京支社長だった吉本せいさんの弟・林弘高さんが、自宅横のフランス人宅を借り上げてくれ、そこで初めて2人一緒に住むことがかなう。
「笠置さんは後に、このときのことを“わが生涯最良の日々”とつづっています。最愛の人とひとつ屋根の下で一緒に暮らすことができたのは、この半年間だけだったからです」
しかし、このころには穎右さんの体は結核に侵され、喀血することもあった。
「8月に戦争が終わると、穎右さんは母親に認めてもらおうと、大学を中退し、東京支店の社員として必死に働き始める。笠置さんももっと活躍すれば認めてくれるのではと、作曲家・服部良一さん宅に間借りし音楽に集中しました」
だが、病状は悪化。昭和22年1月、兵庫県の母親の実家で療養することになった。
「このとき、彼女は妊娠していました。
もう仕事は終わった。兵庫にお見舞いに行きたいという笠置さんに、穎右さんは《臨月も近いので、来るにおよばず》という手紙を送る。そのころ、反対していたせいさんは“孫ができるなら”と態度を軟化させる。
「人づてでしたが、笠置さんに何度も『体にきいつけて』『あんじょうしいや』とメッセージを送ったそうです」
担当医に『長くはもたない』と宣告されたとき、せいさんは、笠置さん1人を穎右さんのいる兵庫まで運ぶためだけに、300人乗りの豪華客船をチャーターしようとする。病床の息子に「しーちゃん(笠置さん)に会いたかったら船を用意するで」と。
だが、穎右さんは「(船に乗ることで)万一のことがあったら大変や。生まれてくる子がいちばん大事。僕はその次や」と、言い残すようにして23歳の若さで亡くなった。産院で訃報を聞いた笠置さんは、当時の日記にこう記している。
《全身がぶるぶるとふるえ、お腹の子までも息が止まるのかと思うばかりだった。(中略)穎右がラッパを吹いて、その音色に合わせて自分が歌っている夢をみた》
それから13日後、笠置さんは産気づいた。
「お腹の子の父の死の報が伝えられた“悲しみのどん底”で、32歳の初産に臨まなければなりませんでした」
彼女を勇気づけてくれたのが、唯一東京に残していった穎右さんの浴衣と丹前。
「彼女はそれを産院の部屋の壁にずっとつるしていました。まるで穎右さんがその場にいるような気がして落ち着くと。陣痛が来たときは、それを抱き締めて耐えたそうです」