躍進する“日本人ファースト”政党
7月5、6日に共同通信が行った比例投票先についての世論調査では、参政党が自民党に次ぐ2位という結果となり、衝撃が走りました。既存の政党に対する不満の受け皿となっていることが浮き彫りになった形です。では、参政党にはどのような点に有権者が期待しているのでしょうか。
彼らの政策を一言でまとめると、「日本人ファースト」です。党の公式ページには「3つの重点政策」として次のように掲げられています。
1つ目は、子供の教育。お金と機会の面で平等を目指しつつ、その先に「自虐史観を捨て、日本に誇りが持てる教育を!」という大きなゴールを設定しています。
2つ目は、「食と健康・環境保全」を訴えています。ここでは、反ワクチン、反再生エネルギーをはっきりと打ち出しており、他の政党と比較しても明確に断言している点が印象的です。
そして最後は、「国のまもり」です。外国人による土地の買収や移民の流入を防ぐことで、日本人だけで日本を運営していくべきだと強く訴える政策です。
こうした「保守」的な政策に加え、神谷宗幣代表が街頭演説で述べた「高齢の女性は子供が産めない」などの、“社会的に言及がはばかられる事柄”にも忖度しないという姿勢が、一部で熱狂的な支持を集めているのです。
参政党、賛否両論の渦中へ
しかしながら、こうした過激な主張や、国民主権をも否定するかのような思想を隠さない政治姿勢に対しては、多くの人々から懸念の声が上がっています。SNS上では、「参政党はカルトだ」や「頭が悪い」といった党自体への否定的なコメントに加えて、「参政党の支持者は頭がおかしい」といった支持者個人に向けた批判的な意見も散見されます。このままの勢いで影響力を持つ存在となるかどうかは、選挙で問われることになりそうです。
参政党の支持・不支持を巡る声は、大きく2つの立場に分かれると考えられます。一方は、「日本の国家はまず日本人のために存在するべきだ」と考え、参政党を支持する人たち。もう一方は、荒唐無稽な政策や憲法案に基づき、「こんなものを支持する人たちはどうかしている」と否定、嫌悪する人たちです。
参政党、その危うき保守の影

仮に愛国心や国旗への誇りが育まれるとしても、それは本来、個々の内面から自然に芽生えるものであって、外から押しつけるものではないはずです。日本が民主主義国家であるならば、そのような精神は自由意志に委ねられるべきではないでしょうか。
また、「移民受け入れより、国民の就労と所得上昇を促進!」というスローガンも、人口減少によって労働力も購買力も低下していく中で、どうやって日本国民だけで稼ぎと消費を増やすというのでしょうか。これは難解な経済理論の話ではなく、単純な算数の問題です。
たしかに、失われた30年を経て、力強い日本を復活させたいというのは国民の総意なのかもしれませんが、その力強さを訴える論法が、二重否定による肯定のような形で屈折している。ここに、参政党の訴える「保守」の暗さがうかがえるのですね。
「日本人ファースト」に宿る不安と欲望

参政党が掲げる「国のまもり」の中で示しているグローバリズムへの抵抗も象徴的です。グローバリズムとは、ざっくり言えば、どこの国、どこの街でも似たような建物が並び、食べ物もみな同じ味がする。流行する音楽も、観るドラマや映画も同じ、そんな社会です。
そうした社会が広がると、人々は自分のアイデンティティを見失い、より大きな存在に自分を投影し、信じることでしか、不安や孤独な心をやり過ごせなくなる。いまの日本では、そうした心の隙間に「日本人ファースト」という甘い言葉が静かに忍び込んでくるのです。
そもそも“◯◯ファースト”という表現は本来、自分が優先されるのではなく、相手を立ててお先にどうぞと振る舞うのが自然なはずです。それが、この数年ですっかり意味が入れ替わってしまいました。これは、日本の社会が直面している切迫した余裕のなさを象徴していると言えるでしょう。そして、それは経済的な困難だけが原因ではないはずです。
このような背景がある中で、来たるべき選挙では参政党がおそらく予想を超える議席を獲得するでしょう。
しかしながら、未来はこれほど単純ではない可能性もあります。これからも“参政党的なもの”が現れるリスクを警戒しつつ、辛抱強く考えをクリアにしていく忍耐力が求められているのではないでしょうか。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4