“国際標準”という提言に巻き起こる波紋
発端は紀藤正樹弁護士が「他にも主人公の名前にも議論があり過去も含めて今一度立ち止まって国際標準での漫画作りをすべきというのが私の考えです。」と、Xに投稿したことでした。これに対し、漫画家の森田まさのり氏は「国際標準で漫画描くようになったらつまらんやろなぁ……」と疑問を呈し、著述家のCDB氏も「海外であのレベルのパロディが問題視されることなんてまったくないですよ。」と反論。
さらにはイーロン・マスクまでもが「あの弁護士は恥知らずだ。そんなことをさせるために、誰が彼に金を払っているんだ?」と反応。海外のアニメファンも、国際標準は「文化を破壊する」としてマスク氏の意見に同調しています。
炎上を受け、紀藤弁護士は“オマージュをする際には事前に挨拶をするのが国際的マナー”と釈明したものの、当初の文脈から論点がずれていると感じる創作サイドからの反発は収まらず、議論はより深いレベルへと移行しています。
したがって、ここでは“国際標準”をマナーの問題ではなく、あくまでも作品づくりそのものを国際仕様にすることという理解で議論を進めていきます。
K-POPが教えてくれる“同化”の代償
では、紀藤弁護士の主張の是非はさておき、創作が国際標準に統一されたとき、結果として何をもたらすのでしょうか?音楽でわかりやすい例があります。海外で隆盛を極めるK-POPが、自国民に違和感を持たれてしまう現象です。これはジャンルを超えて、グローバリゼーションの負の側面を示しています。

しかしながら、あまりにも欧米と遜色ない音楽なので、韓国人の間で“何が本物のK-POPなのか”とアイデンティティを問う事態になっているというのです。『クーリエ・ジャポン』(2025年6月28日号)が報じています。
「リサやジェニーのソロプロジェクトで、西洋のアーティストとのコラボレーションがこれほど多くあることを、多くのファンは必ずしも快く思っていない。
というのも、ファンにとっては『純粋で本物のK-POP』という感覚が重要であり、その大部分は楽曲が韓国語で歌われていること、そしてアーティストが韓国人、あるいはアジア人の特徴を持っていることと結びついているからだ。また、西洋のアーティストの特徴を入れすぎると、西洋に認められたい気持ちが強すぎるように見え、よく思わないファンもいる。」
均質化する文化に、私たちは耐えられるのか?

漫画や音楽などのサブカルチャーは社会的なインフラです。もはや自然に溶け込んだ風景のようなものだと言えるでしょう。それが“国際標準”の掛け声のもとで意図しない形で画一化されたとき、一体何が起きるのでしょうか?
詩人の金子光晴は『絶望の精神史』で、現代のグローバリゼーションが呼び起こす不安を60年以上前に予見していました。
「上海も、ロンドンも、ローマも、いまでは、おなじように箱を並べたような団地住宅が建って、おなじような設計の狭い部屋で、コカコーラとスパゲッティとサンドイッチで暮らすようになる。世界は似てくる。これをデモクラシーというのであろうか。同時に、ばらばらになってゆく個人個人は、そのよそよそしさに耐えられなくなるだろう。」(pp.186-187)
味気ない均質化が奪う、創作の輝き

果たして、世界の漫画ファンは、そのような状況を望んでいるのでしょうか?たかがサブカル、エンタメと侮るなかれ。創作における統一規格を世界各国で共有すればするほど、いたるところでこのような自己の喪失が起こりかねません。
紀藤弁護士の真意はどうあれ、“国際標準”という言葉は大きなハレーションを引き起こしました。その背後には、いつ暴発するかわからない実存的な不安が潜んでいることを認識する必要があるのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4