「正解・不正解」で測られる音楽という構造
人気番組『芸能人格付けチェック 秋の3時間半スペシャル』(テレビ朝日系)で、名門音大を卒業したプロと中学生による楽器演奏の混合アンサンブルを聴き比べる企画がありました。プロの演奏を当てた方が“正解”で、中学生を選んだ方は“不正解”ということです。これをめぐって、いま議論が起こっています。
ネット上では、“プロに劣るものとして用意された中学生達に対してコンセプトから失礼”とか、中学生の演奏をプロと間違えた出演者が「私たちの耳が悪い」と卑下して笑いを取ったことに、多くの批判の声があがっているのです。
一連の経緯を見ると、一生懸命演奏した中学生に対する同情として番組に批判が集まっていますが、ここに日本の音楽番組が抱える問題が現れていると感じます。
減点と数値化が作る“窮屈な音楽”
それは、音楽の良し悪しを正確性や数値化によってしか測れない貧しさです。たとえば、ピアノでミスタッチをしたら失格とか、正しい音程を示す画面があって音が外れた瞬間にブザーが鳴るカラオケ番組とかが人気です。これらは、不正解を浮き彫りにすることで正しいことに対する客観性を証明する構造を持っています。
つまり、個人の主観や感性よりも、形式的な客観性によって音楽の良し悪しを決定することを好む人が多いことを意味します。減点法による緊張感を高みの見物で楽しむ。それが、いまの日本の音楽番組を支配している感覚です.
これはテレビに限りません。吹奏楽や合唱コンクールなども、似たようなものです。審査員の嗜好が基準、つまり正解として設定され、そこにいかにしてミスを減らして近づくかというチキンゲームになっている傾向があります。
これも、減点法による緊張感が生み出す、負の競争だと言っていいでしょう。
「好き」と言う感性が正解に負けるとき
そこで、改めて今回の『格付けチェック』を振り返ると、中学生の演奏には失点や至らない点があり、それゆえに音楽としての完成度に欠けるというあらかじめ設定された“客観性”をもとに、正解が用意されていることがわかります。確かに、名門音大卒業のプロという肩書きがある理由には、そのような明確な違いがあるという事実もあるでしょう。
しかし、音楽とはそれだけで済ませられるものなのでしょうか? もし、それぞれの正体を知ったうえで、それでもなお中学生の演奏が好きだと感じたとしても、そう感じた自分自身の主観や感性までも正しくないものとして否定されなければならないのでしょうか?
つまり、これはいちバラエティ番組のネット炎上だと軽く扱ってはいけない問題なのです。
他人の基準で生きる“感性の敗北”
自分の感じたことを独自の論法で説明する粘り強さを諦めることは、個人が言葉を放棄することを意味します。
この「私たちの耳が悪い」という告白そのものが、空虚な客観性の呪縛そのものだと言えるでしょう。いまは、なにかにつけて「エビデンスは?」だとか「それってあなたの感想ですよね?」とか言われる世の中です。そうすることで客観性を尊重して、物事をフェアに考えていると思い込んでいるのかもしれません。
しかし、その際、人々は一体何を封じ込めて、何に見て見ぬふりをしているのでしょうか?
『格付けチェック』で不正解なのは中学生ではありません。客観性という偽りの正義に甘んじて、感性を断念した大人こそが真の敗者なのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。