
戦争において、遠方から標的を狙い撃ちできるスナイパーは欠かせない存在だ。
映画やゲームなどのフィクション作品に登場するスナイパー(狙撃手)は、迷彩服に身を包み、物陰に潜んで息を殺しターゲットに狙いを定める、寡黙で眼光鋭く、屈強なイメージがある。
だが、人類最強の戦士と呼ばれ、白い死神、銃殺王の異名を持つ実在したフィンランドの軍人「シモ・ヘイヘ」は、そのイメージを覆すことになるかもしれない。
身長155cmと小柄ながら、スナイパーとして射殺した人数は確認されただけで542人と世界戦史で最多を誇り、96歳で亡くなったシモ・ヘイヘについて、詳しく説明しよう。
驚くべき戦果を挙げたフィンランドのスナイパー
この写真を見て欲しい。全身白ずくめで笑顔を見せている身長155cmのこの男性が、今も世界一の戦果を挙げた凄腕スナイパーだとは誰も想像できないかもしれない。
彼の名はシモ・ヘイヘ。元々はフィンランドの農夫兼猟師だったが、1940年にソ連(現ロシア)との冬戦争に従軍し、100日足らずで542人ものソ連兵を仕留めたつわものなのだ。
シモ・ヘイヘの装備と射撃スタイル
通常のスナイパーは最高級の装備で身を固めて狙撃に臨むが、ヘイヘは自分が猟で使っていた狩猟用ライフル、モシン・ナガンM28-30を相棒とし、装備も軽装だった。
全身白ずくめで雪の中に身を潜め、次から次へと敵兵を倒していった。
狙撃兵には必需品ともいえるスコープも一度も使ったことがなく、鉄製の照星と照門(単純な照準器)のみでほぼ百発百中の命中率をあげた。
スコープを使わなかった理由は、反射光でこちらの位置を悟られるのを嫌ったからだ。さらに吐息が白くあがるのを避けるために、雪を口に含んで臨むこともあったという。
シモ・ヘイヘの生涯
シモ・ヘイヘは、1905年12月17日に生まれ、、ロシアとの国境からわずか4kmしか離れていないフィンランドの小さな町ラウトヤルヴィに生まれた。
軍人になる前は猟師、農夫として生活し、射撃の練習はよくしていたという。
1925年、20歳の時にフィンランド白衛軍に入隊した。
1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した「冬戦争」では、歩兵第12師団第34連隊第6中隊に配属され、その射撃の才能を開花させた。
身長およそ155cmと小柄だったため、敵に見つかりにくく、120cmはある長いライフル銃を自在に操った。
シモ・ヘイヘは、スコープなしで、ソビエト赤軍兵を多数狙撃する。ヘイヘの名は、ソ連軍兵士に知れ渡ることとなり、「白い死神」と呼ばれ恐れられた。
当時の敵兵の間でヘイヘの姿を見たものは誰もいないといわれている。なぜなら目撃したら最後、確実に息の根を止められるからだ。
訓練で150mの距離から1分間で16発的中させた、実戦でも300mの距離ならほぼ確実に仕留めることができた、450m離れていても狙撃できた、といった逸話が残されていて、「白い死神」の異名にふさわしい活躍ぶりだったようだ。
だが、そんな凄腕ヘイヘも終戦直前に狙撃され、顎を打ち砕かれるという重傷を負う。絶望的と言われたが奇跡的に一命をとりとめた。
戦後は再び農業と狩猟の静かな生活に戻り、2002年、96歳という長寿をまっとうして亡くなった。
万事、控えめな性格で、自分の従軍体験を語ることはほとんどなかった。
狙撃成功の秘訣を訊かれても「ひたすら練習するのみ」、多くの敵兵を射殺したことについても「他の兵士と同じように義務を果たしただけ」と言葉少ない答えだった。だが、彼の活躍がフィンランドの勝利につながったことは確かだろう。
542人もの敵兵を狙撃した戦果はいまだに世界記録として語り継がれていて、故郷ラウトヤルヴィにはヘイヘを記念した博物館がある。
彼が使用したのと同じ型のライフルや装備品や、彼を形どった木像などが展示されている。
フィンランドの人々は今でもヘイヘを「最も偉大なフィンランド人」の一人として讃えており、小さな子供でも彼のことを知らない人はいない。
2025/02/22:見出しのポーランドの誤りをフィンランドに訂正して再送します。
References: Cracked[https://www.cracked.com/article_45005_the-5-foot-short-king-who-was-the-deadliest-sniper-in-history.html]
本記事は、海外の情報を基に、日本の読者向けにわかりやすく編集しています。