
1915年4月29日、ジョー・アレディはアメリカ・コロラド州プエブロで生まれた。知的障碍を患っていたため、人生の大半を知的障碍者施設で過ごした。
彼の知能指数は46で、そのふるまいはまるで子供のようだった。5までしか数を数えることができず、赤と青の違いもわからなかった。施設では、度々暴力やいじめを受けており、1936年8月に施設を出た。
施設を出た後、鉄道構内をうろついていたジョーは警察の取り調べをうける。近くで暴行殺人事件が発生していたのだ。
厳しい尋問の末、ジョーは自分がやったと自白した。
後にそれは嘘であることがわかる。
これは決して美談ではない。時代に翻弄され、今でもアメリカで語り継がれている悲しい青年の物語だ。
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El Juicio de Joe Arridy
【コロラド州の民家で起きた暴行殺人事件】
1936年8月16日、コロラド州プエブロで、15歳のドロシー・ドレインという少女が殺害される事件が起きた。
この日の午後10時頃、ドロシーの両親、ライリー・ドレインと妻のペギーはダンスホールに行くため外出していた。
帰宅したとき、2階の寝室からうめき声が聞こえたので、慌てて駆けつけると、ドロシーは瀕死の状態で倒れていた。
12歳の妹バーバラも重傷を負っていた。
ふたりは斧で襲われ、ドロシーは性的暴行を受けていた。バーバラは奇跡的に回復したが、ドロシ
ーは亡くなった。
【犯人に仕立て上げられたジョー・アレディ】
ジョー・アレディは、人生のほとんどを知的障害者施設で過ごしていた。知能指数は46で、5までしか数を数えることができず、赤と青の違いもわからなかった。
事件があった直後、ジョーは施設を出たばかりで、ワイオミング州シャイアンの鉄道構内をうろついているところを警察に捕まり、この殺人事件についての取り調べを受けた。
保安官ジョージ・J・キャロルの厳しい尋問の後、彼は虚偽の自白をさせられるはめになった。
キャロル保安官は、ケイト・バーカーギャングを一掃した立役者のひとりたった。
キャロルは、無理やりジョーを犯人に仕立て上げて手柄をあげ、再び新聞のトップニュースに躍り出ようとした、と憶測する者も多い。
ジョーは筋の通った文章をまとめることすらほとんどできないはずなのに、キャロルによると、ほかの人間が知りえない事件の詳細を知っていたと言うのだ。
ドロシー殺害と結びつく直接の証拠は何一つないがアレディは有罪になった。
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【真犯人が見つかったのに死刑となったジョー】
この事件にはすでにフランク・アギィラーという第一容疑者がいて、彼の家から凶器も見つかっていたのに、ジョーも逮捕され、プエブロ出身であることがわかると、一気に彼に注目が集まった。
裁判のとき、一命をとりとめたバーバラがアギィラーに襲われたと名指ししても、当のアギィラーはジョーがドロシーを殺したと主張した。
結果的に、ジョーもアギィラーも、ガス室での死刑を宣告された。
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【世界一幸せな死刑囚と呼ばれるように】
死刑囚監房の看守、ロイ・ベストは熱心にジョーの助命活動をしたひとりだ。毎日のようにジョーを訪ね、おもちゃの赤い列車で一緒に遊んだ。
「ジョーは、子供のように嬉しそうだった。ずっと欲しかったもの、持てるとは思ってもいなかったものを持てたのだから」ベストは言っている。
1938年のクリスマスイブ、ベストはジョーを自分の家に連れてきて、甥と遊ばせた。
誰もが、彼は殺人など犯していないことがわかっていたが、1939年1月6日、ジョーはおもちゃの列車を手に持ったまま、ガス室へ送られた。
「ガッシャーン!衝突!早く故障を直さなきゃ」彼はおもちゃの列車をガス室のドアにぶつける真似をして、最後の最後まで楽しそうに声をあげていたという。
最後の食事に彼が欲しがったのはアイスクリームで、自分がこれから死ぬ運命にあることなど理解していなかった。
ガス室の意味もわからなかったのだろう。看守に「ノー、ノー、ジョーは死なないよ」と言っていた。
ジョーは小さな子供のようにニコニコしながらガス室に入り、椅子に縛りつけられ、目隠しをされた。
「さよなら、ジョー」神父のシャラーはそう声をかけて部屋を出た。
ロイ・ベストがガスボンベを落とし、オールド・マックス刑務所の看守として、友だちの命を終わらせた。それが彼の仕事だったからだ。
1939年1月6日、ジョーは23歳でその人生の幕を閉じた。
死の意味もわからず、死刑が何なのかもわからなかったジョー。刑務所の中では看守たちに見守られ、終始楽しそうにしていた。
彼はその後、「世界一幸せな死刑囚(The Happiest Man On Death Row)」と呼ばれている。看守のベストが彼をそう呼んでいたように。
追記(2019/03/02):
日本語にすると「世界一幸せな死刑囚」となるが、原文は「The Happiest Man」である。このHAPPYは、他者からみて「彼が幸せだった」という意味ではなさそうだ。
コメント欄によると、英語や欧米の価値観では、「自分から見て対象がなにか」という視点をもつ傾向にあるようだ。
なのでこのHAPPYは「その様子が楽しそう」という意味で、「死刑が決定しているにもかかわらず、最も楽しそうにふるまっていた死刑囚」ということになるだろう。
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References:morbidology/ Joe Arridy / written by konohazuku / edited by parumo
記事全文はこちら:知的障害を持った青年が冤罪で死刑となり「世界一幸せな(楽しそうな)死刑囚」と呼ばれるまでの物語(アメリカ)※追記あり http://karapaia.com/archives/52271654.html
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