戦争は人類の歴史とともにあった。大昔と現代とで戦い方は大きく変化したが、根本的なところは何も変わっていない。
だが、それらの点で劣勢に立たされながらも優れた戦術をもって見事に不利な戦をくつがえした事例もある。
それはある意味、知恵の勝利と言えるかもしれない。王道ではない、詭道の類だ。しかし、人はそのような勝利にこそ魅せられるのだ。
ここでは、傑出した軍人たちが死地の中で自軍を勝利に導いた類まれなる8つの戦術を紹介しよう。
【8. 紙マッチ作戦(イギリス)】
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第二次世界大戦は独創的な戦術の宝庫である。だからと言って、そのどれもが成功しているわけではない。
イギリスの紙マッチ作戦は本来の狙い通りには行かなかった点では失敗かもしれないが、それでも大きな戦果を上げることには成功した。
この作戦で、イギリスは紙マッチを空中からドイツ陣営めがけて投下。その紙マッチの箱には、皮膚の炎症や肺病に見せかける方法が説明されていた。
これを読んだドイツ兵の中には説明に書かれた方法で仮病を使い、戦場から逃げ出す者も出てくることだろう、とふんだのだ。
だが、ドイツの指揮官はイギリスの狙いを見抜いた。本当に具合が悪いと思われる兵士以外は病院で治療を受けることを許さなかった。というか、少々具合が悪そうでも兵士たちに戦うことを強いたのだ。
しかしこれが思わぬ落とし穴であった。本当に病気だったのに病院に行くことを許されなかったドイツ兵士から、陣中に感染が広まってしまった。
さらに指揮官が治療を認めなかったために、兵士との信頼関係も崩壊してしまった。
【7. 死の偽装(ノルウェー)】
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ノルウェー王ハーラル3世
11世紀のノルウェー王ハーラル3世は、武断派であったことから苛烈王として知られている。東ローマ帝国の傭兵として働きながら、巧みな戦術で自軍を勝利に導いた。
数々の勝利の中でも特筆に値するのが、頑なに抵抗を止めようとしなかった町の包囲戦だ。町は容易には落ちず、そのために味方は苛立ち、戦場を離脱する者やヤケを起こして突撃する者が続出した。
そこでハーラル3世は妙案を思いついた。
町の人たちはこれにすっかり騙され、あまつさえ町の中で埋葬させてやろうとすらした。
数人の仲間とともにまんまと町の中に入り込むことに成功したハーラル3世は、棺から飛び出すと剣を一閃。あっという間に町を制圧した。
【6. ウラヌス作戦(ソ連)】
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Stalingrad 07 - Operation Uranus - The Red Army Is the Strongest
ナチスドイツによるソ連侵攻は冬将軍によって阻まれたという話は有名だ。だが、見落とされがちなのは、最初ドイツの作戦は順調だったということだ。
もし戦況がスターリンの思惑通りに進まなければ、歴史はまったく違うものになっていた可能性もあるのだ。
戦いの分水嶺となったのがスターリングラード攻防戦だ。この戦いは史上稀に見る大兵力が投入された戦いなのだが、戦況はソ連にとって思わしくなかった。
そこでスターリンが目をつけたのが、ドイツ軍の補給線である。
ウラヌス作戦として知られるこの作戦では、ソ連軍は自軍の補給物資を町の北と南の2部隊にわけた。
その狙いはドイツ軍の背後に回り込み補給線を断ち、しかるのちに挟み撃ちにすることだった。
愛国心ゆえかスターリンの粛清に対する恐怖ゆえかわからないが、それでもソ連兵は見事この作戦をやり遂げてこれを境に戦況はソ連へと傾き始めるのである。
もし失敗していたら世界地図は今と違うものになっていたかもしれない。
【5. 空城の計(中国)】
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諸葛亮孔明
もしあなたが暮らす町に15万もの兵士が行進してきたらどうするだろうか? 町の中で戦えそうなのはたったの100人のみだ。
天才軍師、諸葛亮孔明曰く、答えは城門を開け放ち、門の上で琴を弾きながら敵軍を招き入れることだ。
三国志演義によれば、司馬懿率いる魏軍に野戦で敗れた諸葛亮は、城に撤退し、兵士を隠した上で前述のようなことをした。普通なら閉ざされているはずの城門がどうぞ中へと言わんばかりに開かれていたのだ。
何かがおかしいと感じた司馬懿は伏兵を恐れるあまりに、敵は自軍よりも圧倒的に少なかったというのに結局城には突入せず、撤退を命じたという。
しかし、これは天才軍師と称される諸葛亮の名声があってこそで、並みの指揮官がやって成功するかどうかはわからない。かえって墓穴を掘ってしまう可能性だってある。
なお史書では、空城の計を最初にやったのは、蜀の将軍・趙雲となっているそうだ。
【4. イリッパの会戦(古代ローマ帝国)】
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スキピオ・アフリカヌスの銅像
古代ローマ帝国の成功は、有能な指揮官によるところが大きい。
才能ぞろいのローマの将軍の中でも特に有名なのが、ローマを震え上がらせたかのハンニバルの軍勢をイリッパの戦いで破ったスキピオ・アフリカヌスだ。
紀元前206年、ローマ軍率いるスキピオは、ハンニバルの弟マゴと彼の配下で最も優秀だったジスコーネが率いるカルタゴ軍とイリッパ(現スペイン、セビリア県)で対峙。スキピオは中央に練度の高い主力のローマ兵を、両翼にイベリアの傭兵を配置し、これをずっと変えなかった。
これを見たマゴらはそれがローマ軍の布陣であると思い込み、カルタゴ軍の主力を中央に、傭兵を両翼にとローマ軍と同じ布陣を敷いて対応。それから数日間、戦いは膠着状態が続いた。
ところがスキピオは突然布陣を入れ替えて、主力を両翼に、傭兵を中央に配置。夜明けとともにカルタゴ軍を奇襲したのである。
驚いたカルタゴ軍は応戦するも、自軍の主力は中央に配置されたままで、傭兵部隊のみで手練れぞろいのローマ軍主力と戦わねばならなかった。
当然、支えきれず瓦解。こうしてスキピオは1万の兵力差をくつがえし、勝利を収めた。この戦いはローマとカルタゴが繰り広げた第二次ポエニ戦争の転換点となった。
【3. ヒュダスペス河畔の戦い(マケドニア)】
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愛馬に乗るアレクサンドロス大王
アレクサンドロス大王は歴史上最高の指揮官の1人だろう。
生涯を通して負けることなく、小さな都市国家に過ぎなかったマケドニアを人類史上最大の帝国に築き上げた。
しかしインドへの遠征では危うく敗北を喫しそうになったこともある。
ギリシャ、ペルシアと制圧したマケドニア軍をインドで待ち構えていたのは、西洋人が見たこともない巨大な象にまたがる兵士の姿だったのだ。
初めてみる動物の姿に怯むことなく進軍を続けたアレクサンドロス大王は、ヒュダスペス川(現ジェルム川)を挟んで古代インドの王ポロスと対峙。対岸に布陣するポロス軍はマケドニア軍を明らかに数で上回っており、正面からぶつかるのは得策ではなかった。
このときの用兵はアレクサンドロス大王最高のものとして知られている。
大王はポロス軍と睨み合う本体を部下に任せて、自身は少数の兵を率いて27キロ離れた地点まで移動。雷雨が降りしきる中、敵軍に悟られることなく川を渡ることに成功した。
これに気づいたポロスが息子に軍を率いさせ対応したが、アレクサンドロス大王はこれを返り討ちにし、最終的に本体と呼応しつつ戦いで勝利を収めている。
敗れたポロスであったが大王からその勇猛さを認められ、これまで以上の領地を与えられたうえで、大王のインド遠征中はともに戦った。
【2. 弱兵という評判を利用(中国)】
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孫ピン
紀元前403年に晋が韓・魏・趙に分かれたことで始まった中国の戦国時代は、まさに群雄割拠の時代であった。
そんな斉であったが、困ったことに兵は弱く、戦ではすぐに敵前逃亡するともっぱらの評判であった。対するホウ涓に率いられた魏の兵は精鋭ぞろいとの評判である。
両国間で戦いが始まったととき、ホウ涓はやすやすと勝てると思ったことだろう。
しかし斉には孫ピンという軍事の天才がいた。かの孫子の子孫とされ、自身も孫子と呼ばれる孫ピンとホウ涓は、共に兵法を学んだ旧知の間柄であった。
しかし、彼の才能を妬んだホウ涓によって嵌められ、刑罰として両足を切断されたという因縁もあった。
孫ピンの策はこうだ。行軍中、夜間に陣地のかがり火を減らして、兵が少なく見えるよう偽装したのだ。
これを知ったホウ涓は、噂されているように斉兵が大勢逃げ出しているのだろうと思い込み、完全に油断していた。
しかし、いざ対峙してみると斉軍は10万の大軍ではないか。油断し切っていた魏軍は完全に圧倒され、ホウ涓は自らの首を切って自害。斉軍の勝利となった。
【1. ピラミッドの戦い(フランス)】
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フランスの画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドによる作品「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」
人類史上最高の軍略家と言うなら、ナポレオンはその最有力候補だ。
彼が傑出しているのはアレクサンドロスやチンギス・カンとは違い、技術的にも軍の経験の上でもまったく対等な敵と戦い、それでいて勝ち続けた点だ。
いくつもの華麗な用兵を見せているが、特に紹介したいのは1798年のピラミッドの戦いだ。
マムルーク(10~19世紀、イスラム圏にいた奴隷出身の兵士)が誇る恐るべき騎兵は6万。2万のフランス軍を数の上で圧倒的に凌駕していた。
ナポレオンがこの戦いに勝利できたのは、画期的な密集方陣戦術のおかげだ。彼は5師団に方陣を組むよう命令し、内側に騎兵と物資を、四隅に砲兵を置いた。
その布陣は幅よりも長さの方向に兵士を多く割り当てており、正方形というよりも長方形の方陣である。第1半旅団と第2半旅団が前後に立ち、第3半旅団が左右の側面を担当する。
マムルーク騎兵は幾度かフランス軍に襲い掛かったが、その都度フランス軍の砲撃によって撃退された。
終わってみればマムルーク兵は2万の損害を出した一方、フランス軍はわずか300とナポレオンの完全な勝利だった。
なお、「4000年の歴史が諸君を見下ろしている」というナポレオンの有名なセリフはこの戦いでのものだ。
References:Toptenzなど / written by hiroching / edited by usagi
記事全文はこちら:知恵の勝利。不利な状況をくつがえし大きな戦果を上げたかつての戦闘における8つの戦術 http://karapaia.com/archives/52284683.html











