
1855年、ヨーロッパで新婚夫婦の夫が新婦を殺すという凄惨な事件が報じられた。新郎はときおりおかしな行動をとることがあり新婦の両親は心配していたが、その予感が的中してしまったようだ。
新婦は新婦に胸を引き裂かれ、無残にも胸を食べられていたという。そのそばに血まみれの新郎が立っていた。
新郎は狂犬病だったようだ。だが理性を失い獣のような行動をおこした新郎の姿は当時「狼男」に例えられた。
かつて欧米では狂犬病が数々の狼男や吸血鬼の逸話や伝説を生み出していたようだ。
【フランスで起きた狂気の殺害事件】
事件が起きたのはフランスの片田舎だ。新郎は理想的な若者に思えたが、「ときおり奇行を目撃されていた」ために、当初新婦の両親は結婚に反対していたという。
やがて新婦の両親も結婚を認めるようになり、無事結婚式が挙げられた。ところが、それからしばらくして新婚夫婦の家から上がった「恐ろしい悲鳴」によって2人の生活に終止符が打たれてしまった。
これを耳にして駆けつけた人が目撃したのは、「胸を残酷に引き裂かれ、苦悶の表情を浮かべたその新婦」であった。そして「狂気に取り憑かれた新郎は血塗れで、あろうことか哀れな新妻の胸部を喰っていた」のである。
まもなく新婦は事切れ、新郎も「激しく抵抗」した末にやはり絶命した。
はたしてなぜこのような恐ろしい事件が起きてしまったのだろうか?
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【狂犬病で狼男に変貌?】
検死の結果、明らかになったのは、新郎が「奇妙な犬に噛まれていた」ということだ。こうなると、犬から狂気が感染したとしか考えられなかった。
当時この事件を報道したブルックリン・デイリー・イーグル紙はこの事件を引き起こしたのは「恐水病」――すなわち「狂犬病」であると結論づけている。
だが、その内容は、狂犬病により「狼男」になってしまったと、ゴシックホラーなテイストでつづられている。
「狂った犬に噛まれたことで、男の体は血に飢えた恐ろしいモンスターに変貌してしまい、かくも凄惨な事件を引き起こしてしまったようだ」といった、読者の興味を惹きつけるのに十分なものだった。
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【欧米では狂犬病がらみの逸話や伝説が新聞のネタとなっていた】
カナダ、ブリティシュコロンビア大学のジェシカ・ワンは、その著書『Mad Dogs and Other New Yorkers』で、狂犬病の裏の意味について考察している。
それによると、少なくとも18世紀初頭から1890年代頃まで、北アメリカでは狂犬病がらみの逸話がしばしば新聞のネタにされてきたという。
当時、人間を荒ぶる獣に変えてしまうことから狂犬病は非常に恐れられていた。
歴史家のユージン・ウィーバーは、19世紀のフランスの農民が狼と狂犬と火を恐れていたと述べている。何世紀もの間、狂犬病の犬は人々にとって悪夢のようなものだったのだ。
じつのところ、19世紀から20世紀初頭にかけて、コレラ、腸チフス、ジフテリアといった他の感染症の方がずっと多くの人の命を奪ってきた。
だが人々を恐怖に陥れたのは「狂犬だ!」という叫び声の方だった。
なにせ、その犬に噛みつかれてしまえば、それは死の宣告に等しく、苦しみながら消耗した挙句、死にいたることになるのだ。
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【精神が錯乱してやがて絶命する狂犬病】
現在では、狂犬病の原因は狂犬病ウイルスであることがわかっている。狂犬病ウイルスが体内に侵入すると、神経を伝って脳に到達し発病する。
また狂犬病という名前から犬だけが保持する感染症のように思われるが、猫やコウモリ、猿やアライグマなど、犬以外の野生動物も感染源となっている。
感染から発症までの潜伏期間は数週間から数ヶ月で、ときに数年になることもある。感染からすぐに処置を受ければ予防が可能だが、発症してしまったならほぼ命を落とすことになる。日本においては狂犬病で亡くなる人はほとんどいないが、世界では毎年5万人が死亡しているとされる。
19世紀の文献によると、潜伏期間がすぎて発症すると、最初はぼんやりとした動揺や情緒不安を感じるという。
やがて狂躁状態となり、不眠、興奮、熱感、頻脈といった症状のほか、喉の筋肉が麻痺することからよだれを垂らすようになる。さらに幻覚や精神錯乱といった神経性の症状が現れ、最終的には脳神経や全身が麻痺して呼吸困難となり、発症から数日で死亡する。
数世紀前の人間には、狂犬病によって体の自由がきかなくなり、理性が失われるその様子は、人間らしさに攻撃が加えられているかのように思えたことだろう。
こうして、動物からうつされる恐ろしい病気から、人間を怪物に変えてしまう邪悪な動物の力という超自然的なイメージが生まれた。
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【その一噛みが人間をケダモノに変えてしまう】
19世紀のアメリカの文献に、超自然的な力を直接連想させるようなものはない。しかし、症状の記述には、噛み付いた動物のエッセンスが人間を苦しめるという暗黙の了解があった。
当時の新聞を見れば、犬からうつされた人の症状については犬のように吠えたり唸ったりすると書かれているし、猫が感染源なら引っ掻くと書かれている。
幻覚や制御不能なけいれんといった症状は、いかにも動物によって刻まれた邪悪な刻印であるかのような不吉な印象を与えた。
狂犬病の伝統的治療法も、当時のアメリカ人が、暗黙のうちに人間と動物の境界が曖昧であると想定していたことを示している。
たとえば犬による狂犬病なら、噛まれた犬を殺したり、尻尾を切り落としたり、あるいはその犬の毛を傷口に当てたりすることで身を守れるとされた。そうすることで、動物と噛まれた人間の間に結ばれてしまった目に見えない超自然的なつながりを断ち切ろうというのだ。
また、ときおり病気は不気味な痕跡を残したという。1886年、ブルックリンのある住人が狂犬病で死んだとき、ニューヨーク・ヘラルド紙は、男性が息を引き取ってから数分後に「手に残されていた致命の噛み跡である青っぽい輪が消えた」と報じている。
狂犬病の呪いは死によってしか解かれないのだ。
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【狂犬病は吸血鬼のルーツか】
狼男のほかにも、吸血鬼も狂犬病にルーツがある可能がある。
医師のファン・ゴメス=アロンソは、歪んだノイズ、大袈裟な表情、情動不安、突然攻撃的になるといった、どこか吸血鬼を連想させる狂犬病の症状を指摘する。
また、ちょっとした刺激で有痛性のけいれん発作が起きるのも狂犬病の特徴的な症状だ。鏡をチラリと見て激しく反応する様子は、姿が映らない鏡に怯える吸血鬼を思わせる。
さらに東欧の伝承の中には、吸血鬼はコウモリに変身する代わりに、犬や狼に変身するといったものまである。
ハロウィンの時期にもなれば、狼男や吸血鬼といったモンスターのコスプレをした人たちが楽しそうに街を練り歩く。だが覚えておくことだ。このお祭りには仄暗い想像の爪痕があるのだということを。
動物と病気と恐怖が絡み合った末に、動物界と人間界の境界を超えて実体化したもの――もしかしたらそれが狼男や吸血鬼なのかもしれない。
References:How Rabies Inspired Folktales of Werewolves and Vampires/ written by hiroching / edited by parumo
記事全文はこちら:狼男・吸血鬼伝説と狂犬病の関係を考察 http://karapaia.com/archives/52285761.html
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