失われた古代都市、カホキヤの遺跡に残された排泄物から明らかになったこと(アメリカ)

MattGush/iStock
 紀元700~1500年の間、アメリカの中西部や南東部に広まったインディアン文化時代をミシシッピー文化期という。

 その中心が、現在のイリノイ州カホキアで、大勢の人々がマウンド(人工丘)を築き、その周辺で生活していた。


 ところが1450年頃、彼らは忽然といなくなってしまった。考古学者らはこの場所が事実上放棄されたと思っていたが、そうではなかったようだ。

 この地に残された人間の排泄物を分析したところ、新たな可能性が浮上してきたのだ。カホキアが滅び、ヨーロッパ人が入植する前、人が住んでいた痕跡が残されていたのだ。
【カホキアの排泄物探しが始まる】

 新たな研究は、古代の人間の排泄物に化学物質の痕跡を探すことから始まった。カホキア住民の排泄物は、長年の間に近くのホースシュー湖に押し流され、土や花粉、その他の物質と共に層となって堆積している。

 人間の腸内のバクテリアがコレステロールを分解すると、コプロスタノールという化学物質を生じる。これは、その環境の中にいる人間の糞便の存在を示すバイオマーカーになる。

 何千年もの長い間、土壌で生き続け、これが土中に存在するということは、そのエリアで人間が生活していて、排便していた証拠になるのだ。

 カリフォルニア大学バークリー校の考古学者、A・J・ホワイトらは、実際に土中のコプロスタノールと、やはり微生物がコレステロールを分解してできるコレステノールという化学物質の割合を調べた。

 この割合が高いということは、人間の排泄物がたくさん存在したことを示すが、この割合だけでは、人間の数まではわからない。しかし、人口が増えていたのか、減っていたのか、その速さはわかるという。


 「人間の排泄物を調べることは、とても価値があります」ホワイトは2019年のインタビューで答えている。

 「これは考古学の分野ですが、昔は目新しいものだったと思います。しかし、ここからわかるのは、トイレに行くことのように日常茶飯事なささやかなことから、かなり重要なことが発見できるということなのです」

[画像を見る]
Cahokia Mounds State Historic Site
【カホキアが滅びた後も人の痕跡】

 カホキアが滅亡し、ヨーロッパからの入植者がこの地にやってくるまでの、何世紀も前の堆積層に存在するコプロスタノールの量をベースにすると、カホキアが滅びた後、1世紀もしないうちに、再び元の住民グループがこの地に戻っていたことがわかった。

 この事実は、ヨーロッパ人たちがやってくるまで、現在のアメリカ中西部が誰も住まない荒れ地だったという一般的な考えとは矛盾する。

 「1400年頃にカホキアが滅び、そのまま打ち捨てられていたと言われていることに関して、たくさんの議論が交わされました。わたしたちの研究は、この地にまつわる話に新たな層を加えているようなものだと思います」

[画像を見る]
wikimedia commons
【先史時代と西暦紀元】

 1150年以降、湖底のコプロスタノールの量は徐々に減っている。これは周辺人口が減っていることを意味している。しかし、カホキアの発掘からは、タイミングは同じでも、人口減が都市がほろんだ原因ではなかったことがわかる。

 コプロスタノールの急激な減少は、壊滅的な洪水や激しい旱魃があった証拠と一致している。このダブルパンチが、湖の周辺で営んでいたトウモロコシ農業に生計を頼っていた町に大打撃を与えた。

 土壌の酸素同位体の割合からは、1150年頃に乾燥した夏と湿った冬へ気候が変わっていったことがわかり、1150年の大量の堆積物粒子クラスターは、ミシシッピー側の近くで大洪水があったことを示していた。

 カホキアは、農業には過酷な気候だったにもかかわらず、さらに数世紀にわたって、このあたりの主要な地域としての勢力を持ち続けていた。


 しかし、1400年にはすべては終わりを告げた。カホキアが滅んで以降、人がこのあたりに住んでいたことを示す考古学的証拠は、崩れた土のマウンドやVacant Quarterの景色以外、なにもない。

 しかし、ホースシュー湖底の泥は、違う事実を物語っていた。花粉やわずかな炭を含むコプロスタノールは、カホキアが滅んで1世紀たった頃、人々がこの周辺に住み、もちろん排泄行為もしていたことを示している。

[画像を見る]
Heironymous Rowe/wikimedia commons
【ゴーストタウンに再び活気が戻るとき】

 カホキアが滅びておよそ100年の間、コア堆積物を調べた限りでは、周辺はまるでゴーストタウンのようだったと思われる。

 それから、1500年頃、多くのコプロスタノールが再び湖に流入し始める。つまり、人が戻ってきたのだ。

 しかし、その頃のカホキアは、昔とはかなり違った環境になっていた。堆積物には樹木や植物の花粉が昔よりずっとたくさん含まれていた。つまり、森や草原が以前のトウモロコシ畑に開拓され始めたということだ。

 牧草地は、新しくやってきた人たちにとっていい環境だった。野牛にとって完璧な住環境だからだ。
湖の堆積物から出てきた炭の粒子から、人々が狩猟の一環として、草を燃やしたことがうかがえる。

 春に草原の草を燃やすのは、同じ場所に新しい新鮮な草を生育させるのを助ける。新鮮なおいしい草は、空腹なバイソンを惹きつける。

 こうした生活様式は、1700年までにこの地域に住んでいたイリノイ同盟と呼ばれる先住民グループとよく似ている。

 イリノイ人は、春と秋の間に村に定住し、小さな農場や果樹園で働いた。ほとんどの村は夏の間、バイソンの群れを追い、冬は全員が小さな単位に分かれて、収穫のない時期をを乗り切った。カホキア周辺に再び住み始めた最初の人たちがイリノイ人かどうかは、十分な証拠はないが、ホワイトらは、誰であろうと、似たような生活をしていたのではないかと考えている。

 この地域でのこうした生活の、考古学的証拠があまり見つからないのも無理もない。小規模で、移動を繰り返しながら暮らす人たちのグループは、はっきりした遺物の痕跡をほとんど残さない。現場からは、のちのカホキア時代にはっきりつながる人工物は、それほど頻繁に見つかっていない。

[画像を見る]
JByard/iStock
【サバイバルストーリー、失われた文明ではない】

 カホキア周辺の人口は、1650年頃までに増え続けた。北米のほかの場所で起こっていたことを考えると、これは驚きだ。


 同じ頃、カナダ、カリブ、メキシコ、アメリカ東部で、壊滅的な疫病が流行っていたのに、カホキアは繁栄していたのだ。

 アメリカの内陸部は、ヨーロッパ人たちの間で流行っていた病気からは、少なくとも一時的には隔離されていたということになる。

 1700年頃、最初のフランス人宗教使節団がカホキアにやってきたちょうど1年後、ホースシュー湖周辺の人口が減り始めた。

 堆積物のコプロスタノールも、明らかに急に減った。この頃、花粉の量もやはり少なくなった。つまり、かつてバイソン狩りを支えていた、草原もまた縮小したということだ。

 記録によれば、この地域で天然痘やはしかが爆発的に流行り、さらに侵食してきたヨーロッパ人から圧力をかけられていた、近隣のイロクォイ人たちの戦争も追い打ちをかけた。

 小規模なイリノイ人の人口は、1800年代始めまで持ちこたえていたが、アメリカ政府が強制的に多くのイリノイ人をオクラホマへ移住させた。今日、この移住の生き残りたちは、正式にオクラホマインディアンのピオリア族として知られている。現在もイリノイ州で生活している人を含め、3000人近くいる。

 ホワイトは、コプロスタノールの研究が、社会の激変と環境の問題に直面した、先住民の回復力と根気強さの重要な例を示してくれたと言う。

「しかし、考古学研究の歴史を通して、アメリカ先住民が消えてしまったことが、その永続性よりもずっと強調されてきました」

 とくにカホキアでは、この町が放棄されたことばかりが注目されているのが事実だ。


 この研究は『American Antiquity』に掲載された。

References:cambridge / arstechnica / sciencedaily./ written by konohazuku / edited by parumo

記事全文はこちら:失われた古代都市、カホキヤの遺跡に残された排泄物から明らかになったこと(アメリカ) http://karapaia.com/archives/52287551.html
編集部おすすめ