罪の代償は恐ろしく奇妙な罰だった。実際に行われていた世界8の処罰


 太古の昔から人類の歴史を通して、人が人の行いを正し、社会を律するという思いは変わらないようだ。北欧などでは更生に重きを置くスタイルが確立されつつあるが、犯した罪の内容に応じて相応の罰で償わせるというスタイルをとっている国家も多い。


 これまで、罪を犯した者に対するさまざまな刑罰が考案されてきた。今では考えられないような残酷で怖ろしいものから、首をひねるような奇妙で独創的なものもあった。

 ここではかつて行われていたいくつかの奇妙だったり、恐ろしかったりする処罰の数々を見ていこう。
【酔っぱらいのマント(中世ヨーロッパ、アメリカ)】

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 昔のイギリスやアメリカの一部では、大酒飲みをこらしめる処罰方法が存在した。頭や足だけが出るようにした樽のようなものを強制的にかぶせて、町じゅうを歩かせるのだ。

 恥ずかしい姿を人前にさらすことで、恥をかかせ、大酒飲みを反省させるのが目的だ。英国でパブを取り締まる1551年のエールハウス法ができてから、不格好でみっともないこうしたさまざまな"マント"が生まれたことが、イギリスのイラストからもわかる。1862年のアメリカの記述には次のようなものがある。

哀れな酔っぱらいが、オークの樽をかぶせられ、あけた穴から首や手足だけを出して、あたりを歩かされ、人々の前にさらされていた。まるで半分殻のついたヒヨコのような格好が、みんなの笑いものになっていた

 1655年に初めて出版されたラルフ・ガーディナーの「イングランドにみる不平不満」にはこうある。

顔や足を出すための穴があけられた大きな桶や樽を身につけた男たちが、通りを行ったり来たりさせられていた。肩や胴体は見えず、不格好極まりない。
近ごろ流行りのマントだと言われ、人々のさらし者になっていた。これは、酔っぱらいに対する罰だという


【木枷(中国)】

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 17世紀の中国では首に枷を付ける刑罰が行われていた。首枷をはめられた罪人は、手が使えないので、食べ物や飲み物を直接口に入れてもらうよう、乞わなくてはならない。

 写真を見ると、かなり大きな四角い板のようなものに、穴があけられ、そこから首を出すようになっている。

 Chi Ming Fungの著書『Reluctant Heroes: Rickshaw Pullers in Hong Kong and Canton, 1874-1954』によると、この刑罰は、おもに香港において、さまざまな軽犯罪に適用されたようだ。公衆に犯罪を知らしめるための、短期的な刑罰だとされる。

【動物に裁判(ヨーロッパ)】

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 ヨーロッパの歴史の中では、裁判で裁かれ、刑罰を宣告される対象は、人間だけではなかった。動物裁判というおかしな歴史があったのだ。

 人間に対して危害を加えたり、人間を殺したりした厄介な動物を裁判にかけ、死刑を宣告することもあった。

 エドワード・パイソン・エバンスによる『動物の刑事追訴と極刑(The Criminal Prosecution and Capital Punishment of Animals)』という1906年の書物によると、ひとつの村から昆虫を追い出す無意味な判決の例まで出てくる。 

 1394年には、子供を食い殺した罪で、フランスの豚が縛り首になった記録がある。これは、神聖なパンである"聖餅"を冒涜して食べた罪という宗教的違反に基づいた判決だという。


【監禁(世界各地)】

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 昔の刑罰は、公衆の見世物として行われ、現在なら胸が悪くなるようなものが多かったが、もっとも邪悪な刑罰のひとつに、ひと目を避けてこっそり行われるものもある。

 監禁は残酷な刑罰のひとつで、人間を通常の動きができないほどの狭い空間に閉じこめるもの。立つか、座るスペースしかなこともあった。

 悪名高い牢獄、ロンドン塔もこうした監禁施設のひとつだ。監禁をさす“immurement”という言葉は、ラテン語の"壁で囲う"という意味からきている。

 この刑罰は、罪人をただ狭いスペースに閉じこめるだけでなく、食べ物や水を与えず、炎天下や極寒にさらして、ゆっくりと死に追いやることもあった。

 体を伸ばして横たわることなどできず、眠ることもできない。残酷な処刑の方法だっただけでなく、建物の中に人間を生き埋めにする人柱、つまり忌まわしい護符という意味で、行われることもあった。

【烙印(中世ヨーロッパ)】

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 犯罪はもちろん憎むべきことだが、現代では罪を憎んで人を憎まずという人権に基づいた考え方も浸透してきている。ところが昔は、理由の如何を問わず、犯罪者は社会の敵とみなされ、誰にでもすぐにわかるように目印をつけられ蔑まれた。

 こうした烙印は、ヨーロッパの中世時代、新たに編み出された処罰の方法だった。

 例えば、"異端者"は黄色い十字を身につけさせられた。
対象になったのは、犯罪者や反体制派だけではない。1225年の第四ラテラン公会議で、キリスト教徒と区別するために、ユダヤ教徒にもこれが強制された。

 帽子、制服、装身具、もちろん実際のバッジのようなものまで、驚くほど多様な着用アイテムが使われて、つけている者が異端であることを明らかにした。

 自分の行いを懺悔する人々もこの罰の対象になり、こうした印をつけられて、教会との良い関係を取り戻す中途過程であることを世間に示した。

【鼻削ぎ(エジプト)】

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 ギリシア人がリノコルラと呼んだ町は、犯罪者が収容されていた実在の町だった。エジプト、ガザの近くにあり、エジプト王が窃盗犯の追放地として作った。

 泥棒は、鼻を削ぎ落されてから、壁で囲われたこの町に送り込まれた。たとえ脱走しても、その鼻のない外見ですぐにはっきり前科者だと知られ、二度と普通の社会生活を送ることはできなかった。

【恥辱の仮面(中世ヨーロッパ)】

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 中世ヨーロッパで使われた金属の仮面。烙印と同じように、辱めを与えるための道具だ。

 夫に従わない女性や、魔女の疑いをかけられた者、社会のルールに従わない者におかしな仮面を無理やりかぶせて、恥をかかせ、こらしめた。

 仮面は鉄でできていて、グロテスクで、風刺的なデザインになっていて、これをつけている者は悪いことをしたことがひと目でわかるようになっている。


 スコットランドやオーストリアのような国では、仮面は社会秩序の一部になり、博物館に行くと奇妙な仮面がたくさん見られる。

 口やかましい女にかぶせるscold's bridleは、人々に笑われるだけでなく、鎖でつながれて、なすすべもなく暴力を受けることもあった。まれに、子どもや男性に使われることもあり、アメリカでは、反乱を起こした奴隷にかぶせることもあったという。

【ダムナティオ・メモリアエ(古代ローマ)】

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 古代ローマで、支配体制に反逆した者に対して行われた処罰である。日本語では「記憶の破壊」と訳される。つまりその人物の存在の痕跡を一切抹消するのだ。

 その対象は古代ローマ人全般に及び、亡くなってから神格化されローマ皇帝ですら、このダムナティオ・メモリアエを受けた者がいる。

 存在を抹消された者は、ローマの敵とみなされ、碑文からその名が取り除かれ、肖像画からその顔が削り取られ、彼が制定した法律さえも、無効になった。

 その人物を思い出させるものは、徹底的に破壊されたのだ。この罰を宣告される前には、元老院の承認が必要だった。

References:History's Most Supremely Strange Punishments - Toptenz.net/ written by konohazuku / edited by parumo

記事全文はこちら:罪の代償は恐ろしく奇妙な罰だった。実際に行われていた世界8の処罰 http://karapaia.com/archives/52287974.html
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