
「能力が低い人ほど自分を過大評価してしまう」 この現象は、心理学では「ダニング=クルーガー効果」として知られ、人間の認知バイアスの代表例とされてきた。
ところが近年、アメリカの数学者たちは、この効果そのものが、実験の設計上、避けがたい統計的偏りによるもので、“見かけ上の現象”ではないかと指摘している。
最新のデータ解析によれば、能力の低い人も自分の力量を比較的正確に把握しており、多くの人に共通するのは「自分は平均以上」と思いがちな傾向だという。
これは、「能力が低い人ほど自信過剰」という通説を根本から見直す必要があることを示している。
「ダニング=クルーガー効果」とは?
ダニング=クルーガー効果は、1990年代にアメリカ・コーネル大学の心理学者デヴィッド・ダニング氏とジャスティン・クルーガー氏によって提唱された心理学的現象である。
2人の研究は、「能力の低い人は、自分が能力不足であることに気づけないのではないか?」という問いから始まった。彼らは大学生45人に20問の論理問題を出題し、その後、学生たちに次の2点について自己評価を求めた。
- 「自分が何問正解したと思うか」(=絶対評価)
- 「自分は他の学生と比べてどれほど成績が良いと思うか」(=相対評価)
この実験の結果、最も点数が低かったグループ(下位25%)の学生たちは、自分の順位を大きく過大評価していたことが明らかになった。
実際のところ、下位25%に属するということは、平均して全体の上位12.5%にしか勝っていないことになる。にもかかわらず、多くの学生が「自分は平均(50%)より上だ」と回答していたのだ。
このような「能力の低い人ほど自分を過大評価する」傾向は、後に「ダニング=クルーガー効果」と名づけられ、広く知られるようになった。
この理論説が支持されると、政治を知らない人ほど政治を分かっていると考えたり、多くの人がフェイクニュースを見抜けると考えていたりと、この効果を裏付けるような研究がその後も発表されてきた。
実際、「自信過剰な無知」というステレオタイプは、私たちの身近な経験とも合致しやすく、この効果は今や“心理学的真理”として広く受け入れられている。
数学者が指摘する、ダニング=クルーガー効果の落とし穴
ダニング=クルーガー効果は、「能力の低い人ほど自信過剰になりやすい」という直感的に理解しやすい理論として広まってきた。
しかし、アメリカ・ボウディン大学の数学者エリック・ガゼ氏は、この効果の根拠には統計的な落とし穴があると指摘している。
ガゼ氏によれば、ダニングとクルーガーの実験は、参加者に「他者と比べて自分の成績はどの程度か?」という相対評価をさせている点に特徴があるという。
だが、こうした相対的な自己評価は、誰であっても平均以上だと思いやすいという心理的バイアス(平均以上効果)の影響を受けやすく、そこに統計的な構造の歪みが加わると、まるで「能力の低い人がとくに自信過剰であるかのような錯覚」が生まれてしまうというのだ。
架空の人物で再検証したシミュレーション実験
この仮説を確かめるため、ガゼ氏とそのチームは、1,154人分の架空の人物データを用いたシミュレーションを行った。
それぞれの人物には、ランダムにテストスコア(=成績)と相対的な自己評価スコア(1~100)を割り当てた。
つまり、実際の能力とは関係なく、あらかじめ作られた無作為の数字だけで成績と自己評価を決めたのである。
そして、元の実験と同様に、参加者を得点順に4つのグループ(下位25%~上位25%)に分け、各グループの平均的な「実際の順位」と「自己評価スコア」を比較した。
すると当然ながら、自己評価スコアはランダムであるため、どのグループの平均も約50に近づく。
ところが、下位25%のグループは、実際には全体の中で約12.5%の人しか下回っていない。
にもかかわらず、自己評価は平均(=50%)付近だったため、37.5ポイントもの過大評価となっている。
ここで重要なのは、この過大評価が人間の心理ではなく、統計の構造だけで生じたという点である。
実在の人間を使わなくても、ただ数字を無作為に割り当てるだけで、「ダニング=クルーガー効果」のような結果が再現できてしまうのだ。
なぜ下位層ほどズレが大きくなるのか?
ガゼ氏はさらに、テストの成績が最も低い人は、満点から最も遠いために自己評価とのズレが大きくなりやすいという構造的要因も指摘している。
たとえば、テストで10点満点中1点しか取れなかった人が、自分は5点くらい取れたと思っていたとしても、そのズレは4点。しかし、9点取れた人が7点と見積もった場合のズレは2点にすぎない。
このように、成績が悪い人ほど「自己評価のブレ幅」が大きくなるのは、心理的な特徴ではなく、スコアの絶対値に起因する自然な結果でもある。
通説を見直す時が来ている
ガゼ氏の同僚による別の実験[https://journals.asm.org/doi/10.1128/jmbe.v17i1.1036]では、たとえ成績が低かったとしても、多くの学生が自分の能力を比較的正確に把握していることが示されている。
この実験では、学生に科学的な知識や理解度を測るテストを受けさせたうえで、各問題に対して「よくできた」「どちらとも言えない」「できなかった」の3段階で自己評価をしてもらった。
その結果、下位25%の学生のうち、自分の成績を大きく過大評価していたのはわずか16.5%にとどまり、逆に大きく過小評価していた学生も3.9%存在した。
つまり、およそ80%のスキルの低い学生は、自分の実力をかなり正確に認識していたことになる。
これは、「スキルの低い人ほど自信過剰で、自分の能力を見誤っている」というダニング=クルーガー効果の前提を根本から覆す結果である。
ダニングとクルーガーが発表した元の論文[https://psycnet.apa.org/doiLanding?doi=10.1037%2F0022-3514.77.6.1121]には、次のような一文がある。
「無能であることの本質的特徴のひとつは、本人がそれに気づけないということである。」
この主張は非常に印象的で、耳にすれば納得感がある。そのため、今日ではほとんど“真実”として広く信じられている。
しかし、人はたしかに自分をやや過信する傾向があるとはいえ、それは能力の低い人に限られた現象ではなく、ほぼすべての人に共通する認知バイアスである。
ガゼ氏は、ダニング=クルーガー効果の本質は、「能力の低い人が自信過剰になること」ではなく、「多くの人が自分を平均以上だと考える傾向がある」いわゆる「平均以上効果」に過ぎないと指摘している。