
2025年2月、インドの首都ニューデリーの駅で、ヒンドゥー教のお祭りであるクーンブ・メーラの開催地に向かう列車に殺到した乗客が折り重なって倒れ、子供を含む18人が死亡する事故が発生した。
現場は大混乱となり、翌日は非番の職員も駆り出されて、列車運行の回復と安全の確保に注力することに。
そんな中、赤ん坊を胸に抱いたまま警備にあたっている、RPF(鉄道警備隊)の女性巡査の存在が話題となった。
赤ん坊を抱いたまま任務に当たる女性巡査
彼女の名前はリーナといい、3人の子供の母親だという。夫はインドの武装警察体である、中央予備警察隊(CRPF)の隊員で、現在はパキスタンとの国境に派遣されていて家を空けているのだそうだ。
自分の両親も夫の両親もすでに亡く、すぐに助けてくれる親類もいなかったリーナ巡査は、この日非番だったにもかかわらず急遽呼び出された。
大事故という非常事態では仕方がない。上の2人の子供は保育園に預けたものの、非常事態での招集に、生後4か月の息子を抱いたままでの勤務を余儀なくされたのだという。
しかも彼女のシフトは午後4時から午前0時まで。幼い子どもたちを育てている母親にとっては、厳しい状況だったに違いない。
RPFは彼女が赤ちゃんを抱いたまま警戒にあたっている様子をSNSに投稿し、次のようなキャプションをつけていた。
彼女は仕え、育み、すべてをこなす――
母であり、戦士であり、凛として立つ――
16大隊RPSFのリーナ巡査は、子供を抱えながら職務を遂行。
日々、任務と育児の両立に奮闘する無数の母親たちを象徴しています。
投稿された映像では、制服姿の彼女が、赤ちゃんを抱えたまま人混みの中を歩く姿が映し出されていた。
動画は瞬く間に拡散され、ヒンドゥー教で言うところの「女性の力(ナーリ・シャクティ)の体現だ」と賞賛する声が寄せられた。
ナーリ・シャクティとは、サンスクリット語を語源とする言葉で、「ナーリ」は女性、「シャクティ」とは宇宙の根源的な力のことで、女性原理とも訳される、女神そのものを指すこともある言葉である。
現在、インドではこの「ナーリ・シャクティ」という言葉を、女性の経済的自立や社会貢献のシンボルとして掲げ、女性の活躍を促す運動につなげている。
RPF側は今回のリーナさんの姿を、ナーリ・シャクティの象徴として、賞賛する方向へ持って行こうとしていたようだ。
SNSへの投稿は大きな批判を巻き起こす結果に
だが、この映像が拡散するにつれ、インド社会では称賛の声よりも、怒りをあらわにする声の方が大きくなっていった。多くのSNSユーザーが、批判的なコメントを寄せている。
- これは決して感動的な映像じゃない。最も無力で恥ずべきものだ! 赤ん坊を抱えて、この命にかかわる環境で働かなければならない母親も、自分の命よりも義務の方が重要だと知らない赤ん坊も無力だ!
- 誰かに強制されたわけじゃない。彼女は自ら任務を選んだんだ。どんな現場かは事前に知らされている。もし嫌なら断ればよかったんだよ
- 親の介護している男性は、年老いた親を現場に連れてくるのかな
- 子供を抱えていて、どうやって職務を果たせっていうんだ? この状態で群衆の制御なんてできるはずないじゃないか。これって、子供への虐待では? ただ立って座るだけの人に給料を払っているのか?
- 同意します。こんなことを称賛する代わりに、ちゃんとした支援策を考えるべきだ
- 若い母親には、もっと産休・育休、そして妊娠中や出産後1年間は安全な勤務先が必要だよ!
- 鉄道駅は子供にとって非常に危険な場所だ。大気汚染は肺の発達に害を与え、騒音は聴力を損なう可能性があるのを知るべきだ
- 彼女に育休を与えて。
警備員が足りないわけじゃないでしょう!- これは政府が推進している児童虐待の一例だよ。鉄道駅は赤ちゃんにとって危険な環境なのに
- 鉄道駅では日々いろんな事件が起きているのに、赤ちゃんを抱えた女性警官を配置して、それを美談のように持ち上げるなんて、最悪としか言いようがない。恥を知れ!
- もしこの最中に混乱が起きて、母親か子供がケガをしたら、誰が責任を取るんだ? 政府か? どうせ「恩給を支給する」で終わりだろう。警察に期待するのが間違いだった。自分たちの失敗を隠すな。彼女が赤ちゃんを連れて勤務せざるを得なかったのは、一体どんな事情があったんだ?
- いつから赤ちゃんを職場に連れてくるのが許されるようになったの? 私たち80年代90年代に働いていたシングルマザーにはそんな許可はなかった。今になってこれを称賛するの?
- 彼女の両手は赤ちゃんの安全確保のために縛られている。これでどうやって職務を全うできる? もし今、突発的な事態が起きたらどうするの? この状況ではまともな職務なんてできない……
- これはいったい何なんだ? 母親にも赤ちゃんにも危険な状況を称賛するなんて、本当に恥ずかしい。赤ちゃんを見せ物にしているのか、呆れるよ
RPFの職務は、駅構内の安全を守ることにある。痴漢や窃盗、暴力行為などが日常的に発生するインドの駅では、RPFは第一の対処者であり、責任は極めて重い。
仮にその場で事件が起きたとき、彼女は赤ん坊を抱いたまま現場に走り、犯人を取り押さえることができるのだろうか。
あるいは、人命がかかった緊急対応に即座に反応できるのか。
こうした批判は、決して「母性を否定する」ものではない。問題は、子供を連れて仕事をせざるを得ない制度と現場の環境にこそあるのではないだろうか。
育休制度の不備と「母であること」への過度な期待
こういった世論を受け、女性活動家や弁護士たちもRPFへの批判を口にし始めている。
インドの著名な女性活動家で、社会調査センター所長のランジャナ・クマリ氏は、この投稿を強く非難した。
これは犯罪行為であり、RPFは誇るどころか恥じるべきです。これは子供と母親の権利の侵害です。
母親に抱かれた子供は、さまざまな健康のリスクにさらされていて、非常に危険な状況です。それなのにRPFはこれを賞賛している。本当に恥ずべきことです。
さらに彼らは、母親だけが子供の世話をしなければならないという固定観念を強めているんです
また、公共政策アナリストのアクシャト・バジパイ氏は次のように述べている。
2017年の法改正で、従業員が50人以上いる事業所には、託児所の提供が義務付けられました。
現在の鉄道駅ホームの混雑状況を考えると、彼女が赤ん坊を任務中に連れ歩かなければならなかったのは残念です
インドでも女性の育休制度は存在するが、公共機関の現場職においてその運用はまだ不十分であり、職場の理解も乏しいことが多い。
だからと言って、子連れ勤務を認める制度もない。実際、RPFはこの件に関して、母子に配慮し「デスクワークへの配置転換を検討中」と発表している。
だが、それ以前に本来求められるのは、母親が安心して育児に専念できる制度であり、現場を離れることが「職務放棄」とならない職場文化であるはずだ。
彼女が「賞賛されるべきではない」理由とは
リーナ巡査の姿はたしかに今のインドにとって象徴的であった。しかしそれは、「母親でもある女性が困難な環境で職務を全うした」からではない。
むしろ、制度の欠如と職場環境の問題が、彼女をそうせざるを得ない状況に追い込んだという意味で象徴的だったのだ。
今回の出来事を美談として流してしまえば、インド社会が抱える深刻な構造的課題がまたひとつ、その陰に隠されてしまうことになる。
ちなみに今はどうか知らないが、かつてのインドでは道を聞くにも「警官は信用するな、軍人を探して聞け」と言われたくらい、警察、特に鉄道警察は汚職やいじめがまかり通っている組織だった。
リーナさんはこの任務中、手作りの離乳食と毛布やおむつ、ミルクを持ち歩いていたそうだ。彼女は取材に対し、次のように語っていたという。
これは私にとっては通常のルーティンです。ただ、息子がケガをしないよう、気をつけるしかありません。
手を貸してくれる人を探してはいますが、それまでは自分のやるべきことを続けます
この投稿の後、彼女の姿がメディアに現れることはなかったようだが、子育てと仕事の両立は、その後うまく行っているのだろうか。
References: Watch: RPSF constable mom carries baby on chest, patrols crowded platform at New Delhi Railways Station[https://www.hindustantimes.com/trending/watch-rpf-constable-mom-carries-baby-on-chest-patrols-crowded-platform-at-new-delhi-railways-station-101739847631624.html]
本記事は、海外で報じられた情報を基に、日本の読者に理解しやすい形で編集・解説しています。