
深海には未知の“境界線”があるようだ。
北極海や北大西洋の水深1000m以上に生息する「ボトリネマ・ブルーシ・エリノラエ(Botrynema brucei ellinorae)」というクラゲは、同じ遺伝子を持つにもかかわらず、2つのタイプが存在する。
ひとつは頭部にコブのような突起があるタイプ、もうひとつはコブがない滑らかなタイプだ。
オーストラリアの研究チームが行った最新の調査で、このクラゲの分布に奇妙な傾向が判明した。コブなしのクラゲは、北緯47度付近を境に、それより南には生息していないのである。
これは深海に、「目に見えない壁」が存在していることを示唆している。
この研究は『Deep Sea Research Part I: Oceanographic Research Papers[https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0967063725001098?via=ihub]』(2025年7月3日付)に掲載された
動物をへだてる「見えない壁」とは?
この地球上には、動物の分布を分ける見えない壁、いわば境界線が存在する。
たとえばインドネシアの島々を隔てる「ウォレス線」、東南アジアの島々とオーストラリア・パプアニューギニアを隔てる「ライデッカー線」や「ウェーバー線」などがその代表だ。
日本にも唯一、津軽海峡に「ブラキストン線」があり、北海道と本州を隔てている。
こうした地域の動物を調べると、物理的な障害があるわけでもないのに、その壁を境になぜか生息する種がガラリと変わるのである。
これらの線は「動物相境界線(分布境界線)」と呼ばれ、気候・環境・海流、あるいは過去にはあったが今はもうない物理的障壁など、様々な要因によって形成されると考えられている。
北緯47度付近に潜むクラゲの「深海の壁」
この境界線ははっきりと見えるものではなく、探し出すのは難しい。ましてや光が届かず、高水圧と極低温に包まれた深海であれば、その難しさはさらに増す。
西オーストラリア大学の海洋生物学者ハビエル・モンテネグロ氏らは、調査船のネットや水中ドローン(遠隔操作型無人探査機)でクラゲの標本を採集し、過去の観察記録や写真資料も合わせて分析。深海クラゲ「ボトリネマ・ブルーシ・エリノラエ(Botrynema brucei ellinorae)」の分布を詳しく調べた。
遺伝子解析の結果、このクラゲは同じ遺伝的系統に属しているにもかかわらず、頭部にコブがあるタイプと、コブがないタイプの2種類の形態を持つことがわかった。
すると、コブありクラゲは世界中の海で確認されたが、コブなしクラゲは北極海や北大西洋の北緯47度以北でしか見つからなかったのである。
しかもコブありクラゲはこの境界を越えられるため、いわば“半透過性”の壁のようになっている。
モンテネグロ氏によれば、北極・亜北極地域では両タイプが見られる一方、ニューファンドランド沖のグランドバンクスからヨーロッパ北西部へ伸びる北大西洋海流より南では、コブなしクラゲは一度も確認されていないという。
同じ種類のクラゲなのに、見た目が違って、住んでいる場所も北と南でくっきり分かれている。この事実は、北大西洋海流域には、これまで知られていなかった「目に見えない境界」がある可能性が高いと考えられる。
その正体はまだ不明だが、47度以南に生息する捕食者から身を守るうえで、コブが何らかの役割を果たしているのかもしれない。
深海にはまだ未知の“壁”が隠されている?
コブなしクラゲが47度線を越えて南下できない理由については、さらなる研究が必要だ。
ただしこれまでの研究で、北大西洋海流が流れる海域は、温帯の種と亜熱帯の種が混在する移行帯(エコトーン)」、すなわち異なる環境が連続的に続いている場所であることが指摘されている。
こうした環境の変化が深海のクラゲにも影響を与えているのかもしれない。
今回の研究では、北大西洋の深海では遺伝的には同一種であっても、コブがないタイプは北緯47度を越えられないことが判明した。
この事実は、深海に未知の“見えない壁”が存在する可能性を示すとともに、世界のほかの海にも同様の壁があるだろうことを物語っている。
つまりは私たちはまだ深海についてほとんど何もわかってないということだ。