ポンペイの住民は何を持って逃げたのか?消えた遺物が明かす、生き延びた人々の物語
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 西暦79年、イタリア南部のヴェスヴィオ山が噴火し、古代都市ポンペイとヘルクラネウムは壊滅した。

 町は火砕流と火山灰に埋もれ、住民のほとんどが犠牲になったというイメージがある。

だが、実際には生き延びた人々が少なからず存在した。

 アメリカの古代ローマ史を専門とする研究者による近年の調査で、本来なら遺跡に残っているはずの遺物が消えていることが明らかになった。

 たとえば、馬や荷馬車、港の舟、貴重品や日用品の一部が見当たらないのだ。それは、人々が必要なものを手に取り、家族とともに町を離れた証拠だという。

 では、彼らはどこへ向かい、どのようにして生活を立て直したのか。自然災害の脅威をくぐり抜けて生き延びた人々の知られざるドラマに迫っていこう。

消えた遺物、人々は何を持って逃げたのか?

 ポンペイとヘルクラネウムの遺跡では、家具や食器、彫刻、衣服など、2000年前の暮らしをそのまま残したかのような数多くの遺物が発掘されている。

 しかし、本来なら残されているはずの遺物に不自然な欠落がある。

 家畜がつながれていた馬小屋に馬の骨がない。荷馬車の部品も見当たらない。港に残されているはずの船もなぜか姿を消しているのだ。

 さらに、一部の住居では、金庫の中身や貴重品、調理器具など、日々の暮らしに欠かせない道具も消えていた。

 つまり、これらの「消えた遺物」は、避難することができた住民たちが持ち出したものであり、彼らが可能な限りの荷物をまとめて逃げたことを示す重要な手がかりといえる。

 アメリカ・オハイオ州マイアミ大学の歴史学教授、スティーブン・L・タック博士は、こうした「そこにあるはずのものがない」という事実に注目し、ポンペイやヘルクラネウムから逃れた人々の行動や避難の実態を読み解いた。

 その研究成果は、オックスフォード大学出版局から2025年に出版された博士の著書『Escape from Pompeii: The Great Eruption of Mount Vesuvius and Its Survivors(ポンペイからの脱出:ヴェスヴィオ山の大噴火と生存者)』にまとめられている。

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噴火のタイミングと運が命を分けた 

 ヴェスヴィオ山の噴火は、ほんの数分で町を壊滅させたわけではなかった。

 現代の火山学の分析によれば、噴火は約18時間にわたって断続的に続き、火山灰が降り積もる第一段階のあと、致命的な火砕流が襲ったのはその終盤だったとされている。

 つまり、噴火直後に行動できた人々には、逃げるだけの時間的余裕があった。

 加えて、この日がちょうど近隣地域で市場が開かれる日だった可能性があることもわかっている。これにより、少なくない住民が町の外に出ていたと考えられる。

 これらの要因が重なったことで、火砕流に巻き込まれる前に避難できた住民が一定数存在したと見られている。

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避難できたのは特権階級だけではなかった

 このようにして逃げ延びた人々は、当初は裕福な家の主人などごく一部の特権層だけだと考えられていた。早期に警戒でき、馬車などの移動手段を持っていたからだ。

 しかし、タック博士の調査によれば、実際に避難に成功したのはもっと幅広い層だという。

 当時の記録や碑文、名前の追跡などから、逃げ延びた人々の中には、女性や子どもを含む家族連れ、商人や労働者なども含まれていたことが確認されている。

 現在までに、実名で特定された生存者は172人。彼らの家族を含めると、少なくとも約3000人規模の住民が噴火後の世界を生き延びていたと推定されている。

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彼らはどこへ向かい、どう暮らしたのか

 避難者たちは、国をまたぐような長距離を移動したわけではなかった。多くはポンペイやヘルクラネウムから比較的近い沿岸部の都市に向かっていた。

 特に、ナポリ北部のプッテオリ(現在のポッツォーリ)、ミセヌム、クーマエといった海沿いの町に多くの生存者の足跡が確認されている。

 また、内陸のカプア、ノラ、ヌケリア、アクィヌムなどにも移住者がいた。より離れたローマ近郊の港町オスティアにも多くの家族が定住していた。

 タック博士によれば、これらの移住は政府主導ではなく、住民自身の判断によるものだったという。

 親戚や知人を頼って移動したり、商業や人的ネットワークをもとに移住先を決めたと見られている。

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政府の災害救助支援と、新天地での暮らし

 ローマ帝国政府は、災害発生時に住民を避難させる制度を持っていたわけではなかったが、完全に無関心だったわけでもない。

 被災地の復興支援には資金が投じられ、再定住先のインフラ整備や生活再建が後押しされた記録が残っている。

 移住した人々の中には、新天地で商売を再開した者、再び富を築いた者もいた。例えば、プッテオリに移住した魚醤商人、アウルス・ウンブリキウスの一族は、移住後も同じ仕事を続けていたことが碑文から確認されている。

 一方、貧しい家族の中には、小さな町で細々と暮らしを再建し、時には他の避難民と協力して生き延びた例もあった。

 墓碑には、孤児を引き取った家庭や、移住先で新たな家族関係を築いた記録も見つかっている。

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消えた遺物が語る、リアルなポンペイの物語

 ポンペイという都市は、火山に飲み込まれた“死の町”として語られてきた。

しかし、残された遺跡と、そこから「消えた遺物」に注目することで、そこに生きた人々の新たな姿が浮かび上がってきた。

 持てるものを手にし、家族とともに町を出て、新天地で再び生き延びることができた被災者たち。

 彼らの記録は、瓦礫の中に直接残っていたわけではないが、消え去っていた荷物、移動に使用した動物や舟、道具の痕跡が、彼らが確かに「生き延びた」ことを証明しているのだ。

References: Escape from Pompeii: The Great Eruption of Mount Vesuvius and Its Survivors[https://global.oup.com/academic/product/escape-from-pompeii-9780197678220?cc=us&lang=en&] / 'People made it out of the cities alive': Tracing the survivors of Pompeii and Herculaneum, 2,000 years after Vesuvius erupted[https://www.livescience.com/archaeology/romans/people-made-it-out-of-the-cities-alive-tracing-the-survivors-of-pompeii-and-herculaneum-2-000-years-after-vesuvius-erupted]

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