今から約2000年前の古代ローマは、大理石の神殿が並ぶ華やかな都であったが、日没後の街は現代人の想像を絶するほど混沌としていた。
スペインのグラナダ大学による最新研究は、これまで語られてこなかった古代ローマの「夜」に焦点を当てている。
当時の夜は、昼の厳しい身分制度から解放される自由な時間である一方、略奪や凄まじい騒音、そして皇帝自らが暴行に加わるような危険な迷宮でもあった。
身分の垣根がゆるみ危険が渦巻く夜の街
大理石の街並みや巨大な水道橋。私たちが抱くローマ帝国のイメージは、太陽の光に照らされた昼の姿であることが多い。
だが、ひとたび日が暮れると、そこには全く別の都市の顔が浮かび上がる。
ローマの夜の生活は、活気に満ちあふれながらも、極めて危うい二面性を持っていた。
夜という時間は、昼間の厳格な社会階層が一時的に緩む安全弁のような役割を果たしていた。
居酒屋や夜遅くまで営業している公衆浴場、あるいは個人の邸宅で開かれる宴会は、人々が身分を忘れて交流し、一時的な自由を享受できる貴重な場となっていた。
しかし、その自由には常にリスクがつきまとっていた。
街灯が全く存在しなかった当時のローマでは、深い暗闇が街全体を覆い尽くした。
その闇は、暴行や強盗、ならず者の集団による衝突、さらには国家を揺るがす政治的な陰謀を育む絶好の温床となった。
研究によると、これらの危険は単なる治安の悪化を意味するものではなかった。
階級の格差が激しい社会が抱える構造的なひずみが、闇に乗じて表面化した結果だという。
古代ローマの夜は、都市を完璧に支配しようとする権力の限界を露呈させる場所でもあったのだ。
皇帝ネロの暴挙と窓から降る汚物
夕暮れ後に外出したローマ人が直面したリスクは、避けることのできない現実であった。
明かりが届かない狭い路地では、略奪や襲撃が日常的に繰り返されていた。当時の風刺詩人ユウェナリス[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9]は、トラブルを求めて夜な夜な徘徊する若者の集団について書き残している。
ローマ帝国の歴史家、スエトニウス[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%AB%E3%82%B9]の記述によれば、第5代皇帝ネロ(在位 54年 – 68年)までもが変装してこうした夜の暴動に加わっていたという。
皇帝ネロは夕食から帰宅する市民を無差別に襲っては負傷させ、抵抗する者を下水道に放り込むという残酷な行為を繰り返していたそうだ。
こうした暴力的な集団には、有力者のボディーガードを務める剣闘士や元兵士が加わっていることもあり、一般市民にとって逃げ場のない恐怖となっていた。
あらゆる階級の人々が入り混じる居酒屋も、騒乱の中心地となった。
ワインの飲み過ぎは頻繁に喧嘩を引き起こし、無秩序な振る舞いを助長した。博物学者の大プリニウスは、泥酔や過度な飲み比べがもたらす危険性について著書の中で警鐘を鳴らしていた。
夜の街を歩くことは文字通りの冒険だった。
当時の庶民が暮らしたインスラ(insulae)と呼ばれる集合住宅には下水道設備が整っていなかったため、住民は窓から尿瓶の中身を容赦なく外へ投げ捨てていた。
ユウェナリスは、開いている窓の数だけ危険があるとし、汚物を浴びせられるだけで済むように祈るしかないと皮肉を込めて書き記している。
深夜の石畳に響き渡る貨物車の激しい騒音
夜のローマは静寂とは無縁であった。ユリウス法という法律により、街の渋滞を避ける目的で日中の貨物車の通行が禁じられていたからだ。
この規制により、すべての物流が夜間に集中した。
鉄の縁取りを施した重い車輪が石畳を叩く騒音は、居眠り癖で有名だった第4代皇帝クラウディウス[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9](在位 41年 – 54年)や、深い眠りの代名詞とされたアザラシでさえ目を覚ますほど激しかったと記録されている
治安を守るために組織された夜警部隊
ローマ当局も、このカオスを放置していたわけではない。しかし、現代のような専門的な警察組織を構築するのは困難だった。
共和政の初期には、トレスウィリ・ノクトゥルニ(tresviri nocturni)と呼ばれる治安官が夜間の監視を担っていたが、彼らには十分な予算も人員も与えられていなかった。
事態が好転したのは帝政期に入ってからだった。
初代皇帝アウグストゥス[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9](在位 紀元前27年 – 紀元14年)は、群衆管理のために都市コホルス(urban cohorts)という準軍事組織を創設していた。
また、大火災をきっかけに組織されたウィギレス(vigiles)という夜警消防隊も、夜間のパトロールや軽犯罪の取り締まり、犯人の確保といった重要な任務をこなすようになり、その規模は最終的に7000人にまで膨らんだ。
さらに、プラエトリアニ(Praetorian Guard)と呼ばれる近衛隊が皇帝の安全確保と国家に対する犯罪の調査にあたった。
しかし、初代皇帝がこうした組織を整備していたにもかかわらず、前述した第5代皇帝ネロの時代に至っても、夜の治安は完全には守られていなかった。
治安維持の恩恵を受けられたのはごく一部の人々に限られていた。
政治家や裕福な商人は、自前で剣闘士や元兵士を雇い、私的な護衛団として連れ歩いた。夜道を照らすために、たいまつやランプを持った奴隷を従えるのが富裕層の常識だった。
自力で明かりを用意できない人々にとって、夜の外出は死と隣り合わせの無謀な行為だったのである。
貧困層の避難所と知識人が執筆に励む夜
今回の研究は、社会の光が当たらない場所で生きる人々の夜についても深く掘り下げている。
住む家を持たない貧しい人々にとって、居酒屋は唯一の避難所であり、簡易的な宿泊所でもあった。
ローマ帝国後期の軍人で歴史家のアンミアヌス・マルケリヌス[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%8C%E3%82%B9]の記述によれば、最も貧しい人々は居酒屋の片隅で夜を明かしたり、劇場の天幕の下でサイコロ遊びに興じたりして過ごしていた。
夜は、不吉な儀式や隠された活動が行われる時間でもあった。不吉な場所とされた墓地では、迷信から夜間に行われる貧しい子供たちの葬儀が営まれた。
墓地は魔術や降霊術を操る女性たちが、まじないに使う薬草や骨を収集する場所でもあった。闇に紛れて行われる売春や、代金を払わずに遊びたい若者によるレノーネス(lenones)と呼ばれる業者の家への襲撃など、夜の闇はあらゆる不法行為を容易にしていた。
この研究を行った、スペインのグラナダ大学のマヌエル・アンヘル・ノビロ・ロペス博士は、古代ローマの夜は単なる犯罪の舞台ではなく、それ自体が独自のダイナミズムを持つ社会空間であったと結論づけている。
夜というフィルターを通すことで、昼間には隠されていた法的秩序の矛盾や階級間の緊張、そして弱者たちのたくましい生存戦略が見えてくるのである。
近年、歴史学の世界では夜を文化的カテゴリーとして再評価する動きがある。
ある人々にとって夜は恐怖の時間だったが、知識人エリートにとっては、昼間の騒音から解放されて執筆や思索に没頭できる、静かで創造的な特権の時間でもあった。
古代ローマの夜を紐解くことは、私たちの歴史的、人類学的な知識をより豊かで深いものにしてくれる。
理想化された大理石の文明というイメージの裏側には、秩序と混沌、快楽と危険が日没とともに交互に現れる、極めて人間味あふれる大都市の実像が息づいている。
この研究成果は『 Florentia Iliberritana [https://revistaseug.ugr.es/index.php/florentia/article/view/34463/30510]』(2025年、第36号)に掲載された。
References: Labrujulaverde[https://www.labrujulaverde.com/en/2026/01/this-is-what-night-was-like-in-ancient-rome-a-labyrinth-of-pleasures-and-dangers/]











