道具を使う生き物は、ヒト以外にはチンパンジーやカラス、ラッコやイルカなどが確認されているが、その数は決して多くはない。
だが今後はその生き物たちのリストに、「牛」の名前が記されることになるかもしれない。
オーストリアの農場で暮らす15歳の牛は道具(デッキブラシ)を使って体を掻くことができるのだ。
それだけではない。彼女は体の部位に合わせて「ブラシの毛」と「持ち手の柄」を使い分けるという、高度な応用力を見せた。
この査読済みの研究論文は、『Current Biology[https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(25)01597-0]』誌(2026年1月19日付)に掲載された。
オーストリアの農家で見つかった「道具を使う牛」
こちらが話題の「道具を使う牛」ヴェロニカである。13歳のメスだ。まずはブラシのついている側で、背中をかいている様子を見てみよう。
人間が孫の手を使って背中を掻くように、ヴェロニカはデッキブラシの柄の部分を口に加え、器用にブラシ部分で背中を掻いている。
そしてこんどは、柄の根元を持ち、おなかを搔いている様子だ。
デッキブラシを持ち替え、まさに「痒いところに手が届く」状態を自ら作り出しているのである。
牛の道具使用における初の科学的な記録
オーストリア、ウィーン獣医大学の認知生物学者アリス・アウアースペルク博士と、同大学の研究者アントニオ・オスナ=マスカロ氏の研究チームは、この牛の行動を体系的に観察・検証した。
これまで牛の道具使用は科学的に確認されていなかったが、今回の発見はこれを覆すものであり、牛の知性が我々の想像をはるかに超えていることを示唆している。
この研究は牛の道具使用における初めての科学的な記録であり、人間とチンパンジー以外では極めて稀な「道具の使い分け」能力を確認した貴重な報告である。
また、同じ道具の異なる部分を目的に応じて使い分ける、「柔軟で多目的な道具使用」を確認できた点も重要だ。
ヴェロニカは10年前から道具を使っていた
オーストリア南部、ケルンテン州の山あいにあるノッチ・イム・ガイルタールという小さな村で、製粉所とパン屋を営むヴィトガー・ヴィーゲレさんは、約10年前から愛牛ヴェロニカの不思議な行動に気づいていたという。
現在13歳のヴェロニカはブラウンスイス種という茶色い牛で、肉牛や乳牛としてではなく、家族の一員として大切にされているのだそうだ。
彼女は体が痒いとき、木の枝を口にくわえて、痒い場所を自分でかいていた。年月が経つにつれ、ヴェロニカのテクニックは上達していった。
ヴェロニカはデッキブラシやほうき、熊手のような大きな道具を拾い上げ、口と舌で器用に動かすことができるようになった。
さらには痒いところに道具の先がぴったり届くよう、その長さや向きを自在に変えるまでになったという。
動物の「道具使用」の3つの定義
この行動が科学の表舞台に出たのは、2025年夏のことだった。アウアースペルク博士の元に、友人からヴェロニカの動画を紹介するメールが届いたのだ。
当初、博士は懐疑的だったという。人々から「ペットが道具を使った」という報告はよく届くが、科学的な証拠が不十分なケースがほとんどだからだ。
ある論文では、犬が棒を噛むのは、歯を磨くための道具として使っているのだと主張していました。ただ遊んでいるだけだと思いますけどね
だがヴェロニカの映像を見たとき、博士は「これは偶然ではない」と受け取ったと説明している。博士は当時を振り返り、次のように語っている。
映像を見た瞬間、これは偶然ではないとすぐにわかりました。
認知の観点からほとんど考慮されていない種における、道具使用の意義のある事例でした
博士によると、道具の使用と認められるには、主に3つの基準を満たす必要があるという。
第一に、道具が動物の体の一部、つまり延長として機能していること。第二に、道具を使うことで、本来なら非常に困難なことが可能になること。そして第三に、目的を果たすために、動物が道具の向きを変えることだ。
ヴェロニカがこの基準を満たしているかを確かめるため、博士と同大学の博士研究員アントニオ・オスナ=マスカロ氏は、ヴェロニカの暮らす村を訪れた。
科学者たちが到着し、飼い主のヴィーゲレさんがヴェロニカに1本の棒を渡すと、彼女はすぐにそれを使って体をかき始めたという。
部位の感度に合わせてブラシの端を使い分ける
続く2週間にわたり、オスナ=マスカロ氏はヴェロニカを対象に70回の対照実験を行った。
具体的には、頑丈なデッキブラシをランダムな向きで地面に置き、ヴェロニカがブラシのどちら側を選ぶか、体のどの部位を狙うかを記録したという。
するとほぼすべてのケースで、ヴェロニカはそのブラシを道具として使用した。長い舌をハンドルに巻き付け、ブラシが自分の体に向くようにひっくり返すのだ。
その結果、ヴェロニカは背中のような広く皮膚が厚い部位では、デッキブラシの毛側を選び、ゴシゴシとかく傾向が大きかった。
一方で下半身にある乳房や、皮膚が柔らかくて敏感な部位をかくときには、ヴェロニカはブラシを逆向きにして、滑らかな柄の側に切り替えることがあった。
つまりヴェロニカは、硬いブラシの毛では刺激が強すぎる場所をかくときには、意図的に滑らかな持ち手の方を使っていたのだ。
さらに彼女は、道具の扱い方も調整していた。上半身をかくときは大きく力強い動きを見せるのに対し、下半身の場合はよりゆっくりと注意深く、高度にコントロールされた動きを行っていたのだ。
チンパンジーに匹敵する柔軟な創意工夫
オスナ=マスカロ氏は、ヴェロニカが道具を目的に合わせて使い分けていると説明する。
ヴェロニカは、牛が本当に柔軟な道具使用を行えることを示しました。彼女は単に体をかくために物体を使っているだけではありません。
同じ道具の異なる部分を異なる目的のために使い、道具の機能や体の部位に応じてテクニックを切り替えているのです
ある道具を複数の目的によって使い分ける「多目的な道具使用」は、人間を除けばチンパンジーでしか確認されていないとアウアースペルク博士は指摘する。
野生のチンパンジーは、木の枝の太い方の端でシロアリの巣に穴を開け、細い方の端で中の虫を釣り上げることが知られている。
こうした例は極めてまれで、博士は「牛でこのような能力を見るのは全くの予想外でした」と語っている。
このヴェロニカの行動は、「柔軟で多目的な道具使用」と位置付けられるほか、対象が自分自身の体であるため、「自己的な形態の道具使用」にも当たる。
これは一般的には、外部の物体に向けられた道具使用よりも複雑ではないとみなされがちだ。
しかしその一方で、ヴェロニカは道具を口で操作しなければならないという明確な身体的制約に直面している。
オスナ=マスカロ氏は、彼女が自分の行動の結果を予測し、それに応じてグリップや動きを調整することで、この制約を補っている点が驚異的だと分析する。
適切な環境が家畜の隠れた知性を引き出す
今回の発見は、牛における道具使用としては初めての記録であり、この種が柔軟で多目的な道具使用能力を持っていることを示す初めての証拠でもある。
家畜生物学研究所の応用動物行動学者ヤン・ラングバイン博士も、この発見を称賛し、牛の知性を高く評価している。
ヴェロニカがそもそも道具を使い始めた理由について、オスナ=マスカロ氏は、母親が死んだ直後にその能力が現れたと説明している。
もしかすると、母牛に毛づくろいをしてもらえなくなり、それを補うために道具を使い始めたのかもしれないという。
一方で、ラングバイン博士は別の見方を示している。ヴェロニカが道具を使うようになったのは、「道具を使える環境にあったから」だというのだ。
使える道具が存在しなければ、道具を使う動物にはなれません。牛は賢く、感情を持つ動物です。私たちは彼らをもっと良い環境で扱うべきです
多くの家畜は、操作できるような物体がない、比較的単調な環境で暮らしていると同氏は指摘する。
多くの牛は彼女ほどの年齢まで生きず、開放的で複雑な環境で暮らす機会も少ない。操作できる物体に触れたり、人と日常的に関わったりする機会も限られる。
しかしヴェロニカは家畜ではなく、「家族の一員」として可愛がられており、長寿で人間との日常的な接触があり、豊かな物理的環境にアクセスできた。
こういった要素が、ヴェロニカの探索的で革新的な行動を生み出す下地となった可能性があると研究者らは指摘している。
研究チームは現在、どのような環境がこうした行動を可能にするのか、そして「誰も見ていなかった」だけで、どれほどの同様のケースが見過ごされてきたのかに関心を持っている。
オスナ=マスカロ氏は、もし枝などの持ち運び可能な物体を、目的を持って使っている牛や、その他の動物を見たことがある方は、ぜひ連絡してほしいと呼びかけている。
References: Science[https://www.science.org/content/article/no-bull-austrian-cow-has-learned-use-tools] / Eurekalert[https://www.eurekalert.org/news-releases/1111891] / CELL[https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(25)01597-0]











