木村拓哉主演のドラマ『HERO』(フジテレビ系)が意外にも好調だ。ここ数年、主演ドラマがコケ続け、オワコンと揶揄されたキムタクだが、7月14日に放送された初回の視聴率は26.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。
だが、視聴者は、このドラマがもっとキナ臭い役割を果たしていることを知っているのだろうか。実はこの『HERO』、文部科学省とタイアップをして道徳教育のキャンペーンに利用されているのだ。「道徳教育×HERO」と題されたこのプロジェクトは、キムタク演じる久利生検事の「社会正義」や「本気で生きる」という理念を教育の場に持ち込み、子どもたちの道徳教育を促進しようというもの。ドラマ制作発表の席にはキムタクの横で、下村博文文科相が満面の笑みで座り、「素晴らしい作品」などと持ち上げた。
もともと安倍政権が押し進める道徳教育には批判があったが、この異例の取り合わせに、リベラル派から「権力を監視すべきメディアが国家の思想教育に加担するのはおかしい」という批判が噴出し、保守派からも「フジテレビの薄っぺらいドラマに教育の一端を担わせていいのか」という疑問があがっている。
さらに、このプロジェクトでもうひとつ問題なのは、キムタクが演じる「検事」という設定だ。検事という職業、検察という組織はこの10年、「不正」「腐敗」をさんざん取りざたされてきた。そんな組織と官僚を道徳の教材にして、ほんとうにいいのか。
そもそも検察官は人を起訴して刑事裁判にかける権限、「公訴権」をほぼ独占的に行使する官僚。警察や国税などがいくら事件を捜査しても、検察官が起訴してくれなければ刑罰を科すことができない。
しかし、検察はこの権力を利用して、その時々の政権や官僚組織にとって邪魔な政治家や官僚、メディアを狙い撃ちして、事件をでっち上げてきた。元共同通信記者で、検察に詳しいジャーナリストの青木理が書いた『増補版 国策捜査 暴走する特捜検察と餌食にされた人たち』(角川文庫)には、恣意的に罪に問われた13人の政治家や弁護士、記者などが証言しているのだが、それを読むと検察のとんでもない実態が浮かび上がってくる。
その代表的な1人が2002年に東京地検特捜部に偽計業務妨害などの容疑で逮捕、起訴された当時の自民党衆院議員・鈴木宗男だ。この本では、検察がいかに事件を作り上げ、世論を誘導し、そして世の中にとって"ヒーロー"となっていくのか。そのことが赤裸々に鈴木の口から語られている。
「私の事件をめぐっては、まず当時の世論状況があった。検察や外務省のリークによってつくり上げられたものです。(中略)そうした世論の中で、検察は自分たちのつくったシナリオ、ストーリーに合わせて調書をつくっていった。(中略)国策捜査をやろうと思えば、どんな人でもしょっぴけるんです」
また、検察は自分たちの不正・腐敗を隠蔽するためにも、この権力を濫用している。
その三井が獄中で書いた『告発! 検察「裏ガネ作り」』(光文社)には、年間6億円もの裏金がどうつくられているか、そしてそれを告発しようとした自分に対して、どう口封じ工作を展開し、でっち上げ逮捕にいたったかが克明に描かれている。
しかも、こうした検察の実態は09年から10年にかけて起きた大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で全国民に知られることになってしまった。大阪地検特捜部の郵便不正事件の捜査をめぐり、主任検事自らが描く事件の筋書きに合うように証拠のフロッピーディスクデータを書き換えていたことが明らかになり、当時の特捜部長や副部長までが逮捕されるという未曾有の事態に発展したのである。
さらに、このしばらく後に東京地検特捜部が捜査した小沢一郎の政治資金疑惑でも検事が捜査報告書を捏造していたことが発覚。相次ぐ大不祥事で「検察=正義」という偽りの神話の化けの皮は剥げ、手柄のためならば改竄だろうが捏造だろうが平気で犯す検察官の歪んだ実態が白日の下にさらされた。
そんなことがあった後に検察をヒーローとして描くドラマ『HERO』の続編が放映され、しかも政府の道徳教育の教材になるというのだ。こんな組織をモデルに道徳の教育なんてしたら、それこそ、本音と建前の使い分けが子どもたちの間で広がっていくだけだろう。表向きは「正義」といっておけば、裏でどんな卑劣な手段を使ってもいい、自分たちの不正には徹底して頬かぶりして、逆らうヤツを力でおしつぶせばいい――。いったい文科省はどうしてこんな番組を道徳教育の教材に選んだのだろう。
「安倍首相とフジテレビの日枝久会長はべったりですからね。
ちなみに主人公のキムタクは『AERA』(7月28日号)のインタビューで検察について聞かれて、こう語るのみだった。
「検察官の責任ってハンパじゃなくデカいと思うんですよね」
なるほど、国家のために気合いで命をなげうつようなヤンキー的道徳教育を推し進めたい安倍政権にとって、キムタクはうってつけの人材だったのかもしれない。
(宮岡 悠)