本サイトでは、昨日、トランプ大統領を無批判に歓迎する日本のマスコミの意識の低さを批判する意味で、SKY--HIがシャーロッツビル事件を意識してつくった、ニューアルバムのタイトル曲「Marble」を紹介した。
だが、トランプ来日に合わせて、もうひとつ、是非とも聴いてもらいたい曲がある。
先月20日、佐野は配信限定EP「Not Yet Free」をリリース。その1曲目におさめられている楽曲「こだま-アメリカの友人、日本の友人に」は、今年の4月、ニューヨークのサウスブロンクスに滞在している間に書かれたものだが、スポークンワード形式のこの曲のなかで佐野はこのように朗読している。
〈誰がリーダーだろうと気にしない
気にするのは
リーダーに翻弄された人々
巻き込まれ、分断され、差別され
時に、人と人が殺しあうゲームに参加してしまう
今、できることは何
それはきっと
寄り添うこと
怒りを感じ
声が届かないと感じ
無力だと感じている友達の痛みに寄り添うこと〉
この詩に登場する「リーダー」は明らかにドナルド・トランプのことを指したものだ。人々の差別と憎悪をかきたて、分断をつくりだそうとするリーダー。しかし、佐野はリーダーに翻弄されるな、むしろ「痛みに寄り添う」ことでそのリーダーに対抗しようと呼びかける。
静かだが、野蛮な暴力には絶対に屈しない覚悟を感じさせる言葉。まさに佐野らしいプロテストソングといえるだろう。
そして、この「リーダー」が指している人物は、もうひとりいるのではないか。そう、日本のリーダーである安倍晋三のことだ。
●共謀罪、沖縄基地問題にも批判の声をあげた佐野元春
佐野が抵抗の姿勢を向けている相手はドナルド・トランプだけではない。安倍首相にたいしても、佐野は再三にわたって踏み込んだ発言をしている。
先月28日、佐野は広島市内で行われたイベントの壇上にて、ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)について触れ、「もし核廃絶という目標を本気で持っているならば、日本のリーダーがお祝いのコメントを発信してほしい」(2017年10月28日付朝日新聞デジタル)と語っている。
周知の通り、安倍首相はICANのノーベル平和賞受賞について一言もコメントしていない。ノーベル文学賞を受賞した日系イギリス人作家のカズオ・イシグロ氏に対してはお祝いのコメントを即座に送っている一方、NGO「ピースボート」共同代表の川崎哲氏をはじめ、日本の団体や市民運動家が多く関わってきた組織の偉業はなかったことにしたのだ。
どう考えても整合性のとれていない安倍首相の対応だが、その裏に、首相やその周囲の人々が抱く核兵器保有への黒い野望があることは誰の目にも明らかである。そんな状況に対し、佐野ははっきりと異議申し立てをしたのだ。
また、今年の5月17日、共謀罪が衆院法務委員会で強行採決される見通しが強まってきた時期には、自身の公式Facebookアカウントにこのような詩を投稿している。その詩のなかで佐野は、このまま共謀罪が成立してしまうことに対する警鐘を鳴らし、治安維持法を再びつくろうとしている為政者への怒りを綴った。
〈政府が進めている「共謀罪」に危険なシルシが見える
スーザン・ソンタグは言った
「検閲を警戒すること、しかし忘れないこと」
アーティストにとって、検閲は地雷だ
表現が規制されることほどきついことはない
政府は言う
普通の人には関係ない
しかし判断するのは権力を持つ者、警察だ
ダメと言われたらそれでアウト
戦前の治安維持法と似ている〉
また、15年5月7日には、沖縄県辺野古の大浦湾に赴いたときの所感をFacebookに綴り、「境界線」という短いスケッチを書いている。そのなかでは、アメリカ基地問題で苦しめられている沖縄の人々への思いと、その苦しみをさらに増幅させようとしている安倍首相への怒りが込められていた。
〈米軍基地問題で、
また、この地が引き裂かれている。
本来絆で結ばれているはずのこの地。
誰がその絆を壊しているのか。
なぜその絆が引き裂かれなければならないのか。
リーダーが息をするたびに目を凝らす。
どんなリーダーも信じない。〉
●佐野元春が語る「ソングライターは"メディア"みたいなもの」
周知の通り、佐野元春といえば、日本におけるプロテストソングの代表曲のひとつ「警告どおり計画どおり」を世に送り出したシンガーソングライターである。
1988年8月に発表されたこの曲では、ウィンズケール、スリーマイル、チェルノブイリといった、これまで重大な原子力事故を起こした土地の名を歌詞のなかに埋め込み、これ以上原子力発電を使い続けていいのかどうかという疑問や、それらに関する知識を意図的に隠そうとするマスコミへの憤りを歌ったものだった。
前述したような作品や活動からもわかる通り、その姿勢は80年代から現在にいたるまでいっさい変わっていない。
昨年、野外ロックフェス「FUJI ROCK FESTIVAL'16」にSEALDsの奥田愛基氏の出演がアナウンスされたことをきっかけとして巻き起こった炎上、および、そのなかで「音楽に政治をもちこむな」などという馬鹿げた意見がネット上を飛び交ったことは記憶に新しい。
佐野は「ローリングストーン日本版」(セブン&アイ出版)2016年10月号に掲載されたSEALDsの活動を振り返る記事に短い文章を寄稿しているのだが、そのなかで彼はこのように綴り、若い世代にエールを送っている。
〈SEALDsは嫌われたんじゃない、怖がられたんだ
いつの時代でも、自由な存在を怖がる連中がいる〉
佐野が自らの作品や発言に社会的なメッセージを織り交ぜ続けるのは、それこそがソングライターとしての彼の根幹を為すものだからである。昨年3月にウェブサイト「ORICON NEWS」に掲載されたインタビューで佐野は、自分の歌を「メディア」と呼び、その意味をこのように解説している。
「ソングライターって、言ってみれば"メディア"みたいなものです。この社会で暮らしていて、自分の身の回りにいろいろなことが起こる。
プロテストソングを歌っていた時期のボブ・ディランは新聞やニュース番組で取り上げられた事件を歌にする手法をとっていたし、その後、時代を経ても同様の手法で曲をつくったミュージシャンは数多い。特にヒップホップは黎明期からその要素が強く、貧困や差別などスラム街で起きているひどい現状を歌にすることでその地獄を外に発信しようとした。パブリック・エネミーのチャック・Dによる「ラップミュージックは黒人社会におけるCNNである」という有名な発言はまさにそれを体現したものである。
佐野がとっているこの創作アプローチは決して古びたものではなく、いま現在でも十分に機能するものである。しかし、わざわざネットの住民が「音楽に政治をもちこむな」などとがなりたてずとも、どんどん内に閉じこもり、社会で起こっていることとは距離を保つ若手ミュージシャンは多い。ラッパーのSKY-HIをはじめ、一部には炎上をものともせず自らの主張を押し出すことに物怖じしない人もいるが、そういった人がもっと増えてくれればと切に願う。
(編集部)