イスラム国人質事件に関する"画像と動画"が教育の場で「問題化」している。
今月はじめ、愛知県名古屋市内の公立小学校で、担任教諭が児童に、湯川遥菜さんの遺体画像を教材として見せた。
名古屋市の小学校の校長によると、授業のテーマは「情報化が進むことによる利点と問題点」で、「どこまで真実を報道することがよいか」を議論させるための行動だったという。画像を示す際に、教諭は「気分が悪くなるかもしれないから、見たくない人は見なくていい」と話し、現在のところ体調を崩した児童はいないと報道されている。
同じく、さくら市の中学校教諭も「日ごろからさまざまなニュースを取り上げており、今回は非人道的な行為をしないでほしいと思った」と、平和や人命の尊さを伝える目的で動画を公開したという。
だが、この「教育的指導」に対して異論が噴出している。テレビなどマスメディアが、いっせいにこの教師たちをバッシングしたのだ。
「軽卒すぎる! 子どもたちのトラウマになったらどうするのか」
「明らかに教育者として配慮を欠いた行為。信じられない」
「PTSDが懸念されます。今すぐカウンセラーを派遣すべきです」
このように、PTSDの懸念を理由に「遺体画像」を見ることが悪影響を及ぼすという論は多い。また、現場の教員のあいだでも"PTSD以前に子供に残酷な画像を見せるのは軽卒"という慎重論が大勢を占めているという。
たしかに、義務教育で扱う教材の選別には慎重を期すべきで、児童の心のケアが大切というのももっともな話ではある。だが、殺害現場や遺体を「見せない」ことのほうがむしろ「教育的」であるとは一概に言えないのではあるまいか。
そもそも、こうした"残酷是非論争"や、とりわけ否定派による"トラウマ忌避論"はかねてからあったものだ。
たとえば一昨年、広島県の平和記念資料館は、被爆者を再現した等身大人形を撤去する方針を打ち出した。この人形は原爆投下直後の被爆者の姿を表したもので、全身に大やけどを負い、ただれた皮膚を腕からぶら下げて歩く様子などが描かれており、見学者に対し、視覚的に強いインパクトを与えるものだった。
広島市側はホームページ上で、「凄惨な被爆の惨状を伝える資料については基本的にありのままで見ていただくべきという方針の下、この度被爆再現人形を撤去することとしたものであり、見た目が恐ろしい、怖いなどの残虐な印象を与えることなどを懸念して撤去するものではありません」「被爆再現人形に対して「原爆被害の凄惨な情景はこんなものではなかった。もっと悲惨だった」といったご意見もあります。展示をご覧になられる方の見方によっては、原爆被害の実態を実際よりも軽く受け止められかねません」としているが、市民からの展示継続を求める声は根強い。
また、マンガ『はだしのゲン』(以下、『ゲン』)の閲覧制限問題も記憶にあたらしいところだ。これは、2012年に島根県の松江市教育委員会が、「小中学生には描写が過激すぎる」という理由で、市内の小中学校に対して『ゲン』の閲覧・貸し出し制限を要請し、各学校側が応じたという問題である。これに対しても、市民から処置をやめるよう求める声や署名などが殺到し、最終的に、市教育委員会は制限を撤廃した。
この問題には別に歴史認識に関するプロパガンダが関係してくるのだが、もっとも『ゲン』に関しては、「原爆投下直後などの描写が残酷すぎて教育上よくない」というクレームが出版元などに寄せられることはそれまでもあったようだ。
だが、自身も被爆者である『ゲン』の作者・中沢啓治は、自著『はだしのゲン自伝』(教育史料出版会)のなかでこう書いている。少し長いが引用しよう。
〈ある会合で漫画家数名と一緒になった。そのなかの一人A漫画家が、私に「原爆漫画をやめろ」と言った。「子どもには残酷で刺激が強すぎる! 情操によくないっ!」と言うのだ。「子どもには夢を与える漫画でなくてはならない!」と言うのだ。(略)私はあ然として、こんなくだらん漫画家とつきあえるかとヘドが出た。
この世の中に、童話に出てくるようなメルヘンの甘い世界がどこにあるかっ。現実の厳しさを隠し、戦争や原爆を甘い糖衣で包んで、子どもに見せれば、「戦争と原爆はこんなものか」と甘く考えてなめてしまうのだ。私は、そんな伝え方をする作家に腹が立った。目には目をなのだ。
中沢は、自身が『ゲン』で描いた惨状にも、「まだ網膜に焼きついている本当の姿が再現できず、悩みつづけていた」。そして「「こんな甘い表現がそんなに心に迫っているのか?」と反対に不思議だった」という。だが、やけどにウジが這い回る描写や、死体が腐乱する様子を描き進めると、中沢の周囲の人間は不快感を増大させていった。そこで、気味悪さだけで大事なストーリー展開を読んでくれなければ意味がないと思いなおし、「不本意だが描写方法を変えようと決めた」のだという。つまり、我々が今読むことのできるあの『ゲン』ですらも、現実より「甘い」ものだったのである。
戦争や核兵器の悲惨さ、人の命の尊さ、それが奪われることへの怒り。こうしたものは、「○月×日に△△で空爆がありました」「邦人の人質が殺害されました」などというストレートニュースだけでは伝わらない。とりわけ、ベトナム戦争では、フォトジャーナリストや映像ジャーナリストらによる衝撃的なイメージ──銃弾に倒れるアメリカ兵、火炎放射機で焼き払われる民家、女性や子どもらを含むベトナム人虐殺など──をもってして戦禍が生々しく報じられた。
もちろん、戦争報道にはいくつもの倫理的問題点が指摘されている。だが、「死体」の力が人びとの心に"殺人のリアリティ"を生み、戦争への拒否感を喚起させるのもまた事実である。現に、アメリカ政府は"メディアが終わらした戦争"という側面があったベトナム戦争を「反省」し、湾岸戦争では徹底的な報道管制と検閲を行った。つまり、"目障りな反戦世論"を潰すために、自由な報道を抑制し情報をコントロールしたのだ。
当然、だからといって、今回のイスラム国人質事件に関する"画像・動画"も見せるべきだとするのは短絡的かもしれない。今月18日にも、三重県桑名市で授業中に自らパソコンを検索し、事件の関連画像を閲覧した小学5年生11名が「気持ちが悪い」と訴え、保健室へ行っていたことが市教育委員会から発表された。担任教諭が教室を離れていた際に起こったことだったという。
ひっきょう、教育問題としての「残虐画像」問題については、子供の学年や状況を見ながら慎重に議論すべきだろう。しかし、戦後日本において、戦争や紛争に対する想像力は、日に日に欠乏していっていることを忘れてはならない。
「残虐だから」の一言で、現実が都合良く覆い隠されてしまう危険性を認識する必要がある。
(梶田陽介)