柴川淳一[郷土史家]

* * *

あの日の朝を思い出すと恐怖が甦る。

平成7年の1月17日、早朝5時46分。
これまでに体験したことのない大きな地震。ぐらぐらと揺れ、家が潰れるかと思った。子供の寝室のドアを開けると、中学生の兄が小学生の弟の身体を庇うように覆い被さっていた。幸い、筆者の家族に怪我人は無かった。

テレビで神戸に大地震が発生したことを知った。筆者は当時、岡山にいたが、直前に別れてきた大阪の同僚達のことがすぐ頭に浮かんだ。その日の昼頃から東の空に大きな黒煙が上がった。テレビでは神戸市街地での大火災を報じていた。黒煙は黒雲となって1週間以上東の空をうめつくした。

毎日、テレビ各局は大地震のニュースを続けた。地震の呼び名が「神戸地震」から「兵庫大地震」そして「阪神淡路大震災」へと変わっていった。地震の規模が予想以上に大きかったのだ。


しかし、当初、臨県の岡山ですら、地震の被害の本当の重大さが分かっていなかった。犠牲者の数は日を追うごとに増えていった。NHKのテレビでは、毎夜、犠牲者の方のことを報じていた。

そんなある夜のことだ。震災報道を伝えていたNHKのアナウンサーが感極まって、カメラの前で男泣きに泣きだした。

 「私は、毎日犠牲者の方の人数を発表していますが、お亡くなりになった方々、お一人おひとりの人生や御家族の気持ちを思うと、とてもお気の毒で辛く、耐え難い。」

筆者は、その瞬間、

 「えっ!? アナウンサーがニュース番組の中で自分の思いを言ってしまった。大丈夫なのか?」

という気持ちがした。もちろん、今になって思えば、悲しすぎる現状を伝え続けなければならないアナウンサーという役目には同情をせざるを得ない。それでも、やはりアナウンサーの「男泣き」には驚かされた。

翌日から、その男性アナウンサーは降板した。もちろん、降板の理由は「男泣き」が原因なのか、それとも、別の理由であったかはわからない。しかし、もし「男泣き」が理由での降板であったとすれば、「人間である前にアナウンサーであることを選ばねばならないのか?」と、その時、そう思った。


その後、そのアナウンサーのことはしばらく忘れていたが、何年かして、元気な顔をテレビでお見受けした。

その時は改めて、

 「ああ、よかった。」

と思った。

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