ジャーナリストの父が認知症とパーキンソン病を発症
くらたまお父さまは著名なジャーナリストなんですよね。
ハリー『フィナンシャル・タイムズ』初代東京支局長や『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長などを務めていました。僕にとっては、“家族の無敵の大黒柱”というイメージで。
だから、父の様子が普段と違っても、認知症やパーキンソン病の可能性は考えもしなかったです。ましてや70代後半だったので、まさかそんな早くにはありえないだろう…という思いがありました。
くらたま頼もしいお父さんの姿を知っているだけに、病気であることはなかなか受け入れられないものがありますよね。
ハリーええ。ただ、日常に小さな変化が現れだすと、受け入れざるを得なくなっていきましたね。
階段の上り下りがうまくできなくなったり、朝方3時頃に「仕事がある!」と言って外に出ていったりするようになったのです。
くらたま
そのとき、ハリーさんはどのような心境だったのですか。
ハリー認知症だということが受け入れられなかったがゆえに、父に対して強く当たってしまいました。これまではできていたことができなくなってしまう姿に、イライラが募っていきました。
例えば、父が期日をほとんど守れなくなったことに対してです。昔から「少しぐらい遅れても、終われば大丈夫でしょう」という性格ではあったのですが。僕は期日や期限をきちんと守りたいタイプなので、「何をやっているの!」と父を強く責めてしまったのです。
今ならそれが認知症の症状の一つだとわかります。早くから認知症のことを知っていれば、父にもっとうまく寄り添うことができたと思います。認知症の方にとって一番つらいのは、怒られることと自分が否定されることですからね。
現実をやわらかく受け止めるだけでなく、ユーモアも取り入れて声をかけられたら良かったと思います。
“日本人の美徳”は手放して、介護の悲劇を止めてほしい
くらたまその後、お父さまに対する思いはどんなふうに変わったのですか?
ハリー在宅から施設での介護に移ったことで、気持ちの余裕が出てきました。だいぶ優しく父に接することができるようになりましたね。
くらたまある程度の距離があることで助かる場面も多いですよね。ほかに施設での介護になって良かったと思うことはありますか?
ハリーお手洗いのサポートや、本人がパニック状態になっているときの対処など、「息子だからこそできない」ということが多々あります。そういうときにもとても助かっていますね。
くらたま家族ではできない、他人だからこそできる。やはり他人が入ったほうがいい場面ってありますよね。
ハリー家族以外の人に出会って相談できるようになった瞬間、負担がかなり軽減されます。
以前は、「父のことは家族が一番分かっている」、「こうやって介護すれば絶対に大丈夫」、といった固定観念がありました。
分かります。介護者が陥りがちなパターンだと思います。
ハリー最悪のケースは、老々介護の末に相手を殺してしまうこと。残念ながら、世界各国でそのようなことが起こっています。愛する人を苦しみから解放できないのなら、命を奪おうという考えになってしまう。
くらたまつらく、悲しいことですよね。
ハリー人に助けを求めるのは恥ずかしいことではない、そんなふうに思えると、悲劇はいくらでもストップすることができます。逆に言うと、「人に迷惑をかけるべきではない」という日本ならではの美徳は手放すべきです。
母は自分の身を削ってでも相手を介護するタイプで、その思いが余計に母を苦しめていることを感じていました。自分をファーストプライオリティに置かない限り介護は成立しないですね。
そうですね。ただ、施設に預けることに抵抗を感じることから、在宅介護を続ける人もいますよね。

ハリー
介護施設に大切な人を送ることイコール墓場に送ることだと勘違いしてる人もたくさんいます。僕もその一人でした。だから最初は断固拒否していたんですよ。「なんで?見殺しにするの?」と。でも、それは知識がないからです。
母と僕は、介護施設の力を借りることで、どれだけ負担が少なくなったことか…。余裕を持った心で父と触れ合うことができるようにもなりました。
余裕がない心で介護や介助をすると、悪循環のスパイラルにどっぷりとはまってしまいます。
くらたま介護職の方々には頭が下がる一方、低賃金や重労働といった印象も強いですよね。
ハリーまずは介護職のイメージを変えなければいけません。
たとえばですがマイナスイメージを変えるために、おしゃれなユニフォームを提案してみたいですね。他業界から見ても「大変そうだけれども、かっこいい」って思ってもらえるような。
くらたままず見え方を変える事は大切ですね。ちなみに、お父さまの介護が始まってから、どんなときに幸せを感じましたか?
ハリー 認知症になってから、父との距離がずいぶん近づいたように思えます。今まで知らなかった父の考え方を知って、将来の話ができるようになりました。介護に悩んだことで、同じ経験をしている人への共感につながり、社会に対する関心も広げることができました。人生に対する「ありがたみ」が増して、一日一日を大切に生きるようになったと思います。
くらたま介護を通してご自身も変わられたんですね。とってもいいお話。
苦労や失敗の経験が人間性に深みを与える
くらたまここまでお話を聞いてきて、ハリーさんすごく日本語がお上手だなと思いました。イギリスの学校で学ばれたんですよね
ハリー大学までイギリスです。
その後、ロンドン大学に行ったのですが、早くお金を稼ぎたいという気持ちが日に増して強くなっていました。中退を選び、神谷町で投資銀行マンとして働き始めました。
くらたまそうだったんですか。
ハリー土日はアパレルショップでバイトしていたのですが、その延長線でモデルの仕事をするようになりました。その頃から、いずれはタレント業かキャスターになって、何かを伝える仕事がしたいと思っていましたね。
くらたまタレント業をするようになったのはいつでしょうか?
ハリーあれは2008年かな。スペースシャワーTVという音楽専門チャンネルが最初です。イギリスに帰るのをやめて、日本で「芸能」にちゃんと向き合おうと思いました。
ただ、芸能界に入ってからも大変なことはたくさんありました。
いろいろなご苦労があったのですね。
ハリーその分、強くなりました。苦労してなんぼです。
実は、NHKの番組で、父の思いを聞いたことがあるんです。「僕は大学に落ちたことに対してコンプレックスを感じてるんだけど、お父さんはぶっちゃけどう思っているの?」って。
すると父が「お前は上に向かって失敗しただけだよ」と。日本人にとって、失敗って恥ずかしいことじゃないですか。でも、人って失敗しない限り絶対に上には行けない。「失敗を重ねて乗り越えた人ほど、人間として深みが増す」とも教えてくれました。
くらたま偉大なお父さまですね。ハリーさんのことはテレビでちらっとしか存じ上げませんでしたが、こんなにも深みのある方だったのですね。

ぜんぜんですよ(笑)。でもテレビってそういうものなんです。人の生きざまって瞬間的に伝わることではないと思うので。
介護に対する固定観念を変えていきたい
くらたま今後、ハリーさんはどのようなお仕事をされていきますか?
ハリー介護関係のメディアやイベントのお話をいただくことが増えました。でも、いただくだけでなく今後は、自分から積極的に介護の現状を変えるための発信をしていきたいんです。そのためにYouTubeやTwitterでいろいろなことを伝えています。
今は、世間的に介護施設などでスムーズに面会できる状況ではないですよね。ですから、「皆さんの面会の状況を教えてください」とTwitterで介護をしている方に問いかけています。
北海道から沖縄まで、地域によってまったく状況が違うんですよね。その違いは何なのかを分析しています。面会できることはQOLを間違いなく上げます。面会の緩和を促す署名活動もできたらいいなと考えています。
YouTube番組でフリーの介護福祉士の方のインタビューをさせていただくこともありました。介護職のお給料についてみんなで考える企画にしたんです。

くらたま
ハリーさんが、介護を伝える仕事に興味を持ったのはお父さまの影響ですか?
ハリーそれ以外は考えられないですね。僕の歳で在宅介護を経験する方は、そう多くない。それを話すことで、介護の固定観念を変えられるのであれば、やるしかない。そんな使命を感じています。
ラジオでも、介護の話をすることがあります。最新の洋楽をかけたり、若いリスナーさんも多い番組ですが、絶対に知るべきことだと思っているのでストレートにお話させていただいてます。
くらたまこの対談でも、介護のことを話せずに悩まれていたという声をお聞きします。でも、みんなが直面する問題ですよね。
ハリーいつか必ず向き合うことだと思います。僕みたいに20代でいきなり親の介護が訪れても、頭が真っ白になってしまうような状況になって欲しくない。僕が情報を伝えていくことで、心構えをつくるきっかけになればいいな、と思っています。
- 撮影:丸山剛史
本記事は、2022年3月15日時点の取材を元に制作しております。この度のヘンリー・スコット・ストークス氏の訃報に際し、心よりお悔やみとご冥福をお祈り申し上げます。

ハリー 杉山
1985年、東京都生まれ。イギリス人の父と日本人の母の間に生まれた。11歳で渡英し、イギリスで最も古いパブリックスクールに進学。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院を中退して投資銀行で働く。日本語、英語、中国語、フランス語の4か国語を話し、英会話番組でも活躍。ラジオやドラマなど幅広く活動している。