豊田啓介氏。安藤忠雄建築研究所を経て、2007年に建築設計事務所NOIZを設立。

2022年より東京大学生産技術研究所特任教授と兼任。

「建築は物理的な領域に収まらなくなってきている」

氏の言葉のとおり、建築の概念は、テクノロジー・情報・社会性を縦横無尽にゆきかう複合的な様相を見せている。

新たな局面を迎えつつある建築業界の最前線に立つ豊田氏に、老人ホームの“建築論”を伺った。

都市とは「シェア」の基盤である

―― 業界内外から注目を集めている建築家の豊田さんに、高齢社会における都市のありかた、老人ホームの建築についてのお話を伺います。

まずは、建築に“疎い”私たちに「都市」の定義を教えていただけますか。

豊田 一般的には、東京や大阪、ニューヨークといった「人が密集して、建物が高度に利用されている場所」を指していると思います。

僕はスマートシティ(※)の設計に携わる立場ですので、都市だけでなく建築の定義も「物理的な領域に収まらなくなってきている」と考えています。

※ テクノロジーを活用しつつ、「計画、整備、管理・運営等」の高度化により、都市や地域の抱える諸課題の解決を行い、また新たな価値を創出し続ける、持続可能な都市や地域

―― 「物理的」が意味することを伺えますか。

豊田 元来、境界や自治体によって都市は「決定」されていましたよね。でも、技術の発達により、ネットワークを介して物理的な境界を簡単に越えていける時代になりました。オンラインで繋がることは一例です。

ですから、私の立場で「都市を定義しろ」と言われたら……そうですね、「シェア基盤の重層領域」だと思います。

―― 詳しくお聞かせください。

豊田 「都市でないもの」を定義するとすれば、人口の密度や経済の密度が薄く、“重なり合い”が薄い地域となります。

一方の「都市」は、人口・交通手段、住居、サービス……さまざまなモノやコトが何十にも何百にも重なっているだけでなく、それぞれがより大きく、とにかくいろいろなものを大勢で活用できます。それが都市の有する「基盤」です。

その意味では、実は物理的な領域性は都市の条件の一部でしかないとも言えるんです。

―― シェア基盤の重層性が都市だとすると、都市を「活用する側」にもある種のリテラシーが必要だと感じました。例えば高齢者にとっては都市を活用することのハードルが高いのではないでしょうか。

豊田 いえ、「活用できない」という前提や思い込みは解きほぐせます。そもそも、介護それ自体も「家族的なサービス」のシェアですので、既に活用されています。人と集まって何かをすること、例えば買い物に行く行為だってコミュニケーションのシェアなわけです。

従来のいろいろなコミュニケーション基盤がない世界では、「自分(個体)でなにもかもする」ということが前提にならざるを得ませんでした。

これからの時代は、環境に頼っていこう、環境側からシェアしてもらおう、自分で全部できなくていいという価値観でよくなっていきます。それも都市がもたらすひとつの機能ですね。

―― シェアを前提とした社会はどのように変化していくのでしょうか。

豊田 技術の進歩によってシェアのコストを落とすことが可能になるので、選択肢がより豊富になっていきます。

「個体」としての機能が加齢によって弱ってしまった方にこそ、シェアできるモノやコトがいっぱいあるところに住むべきだと私は考えています。

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「地方」と「テクノロジー」

―― 私の故郷も過疎化が進んでいます。「地方」ではテクノロジーを導入するメリットが見込めないケースも多いのではないでしょうか。

豊田 どの地域をどんな形として、戦略的にシェアの基盤を重ねていくかだと思いますよ。人口が少なくなってきていることは明白です。当然、マーケットとしても弱いので、投資も起きにくいと考えられます。

ただ、都市だけでなく、生活基盤も物理的なものに“閉じなくなっていく”という意味では、「田舎」――都市でない地方のある場所をいったん「田舎」としますが――でも得られるサービスがこれからは増えていきます。そういうものをどんな風に組み合わせて、各自が自分向けにどうアレンジするか次第だと思います。

―― 結果として、「海がきれい」「キャンプに適した広い土地」といった物理的な魅力が相対的に高まるということですね。

豊田 そう。もちろん物理的な距離は非常に重要です。

でも、例えばどこでも同じように仕事ができる前提があるなら、「静かで自然がいっぱいある場所に住みたい。都心に住む友達とのコミュニケーションもネット上でうまくやりたい」という方には田舎が合っているし、「物理的なコミュニケーションがあった方がいいし、刺激も欲しい!」という方は都市部に住めばいい、といった感じにはなっていくのではないでしょうか。

私たちのような都市と基盤作りを同時に推進する側としては、選択肢と「戦略的な違い」をどうデザインするかだと思っています。

―― 私は静岡の港町の生まれなので、神奈川県の「海水浴も楽しめる都会」というイメージには言い得ぬ「憧れ」がありました。

豊田 今後は物理的に“あるもの”と“ないもの”で「お互いを羨ましがる」といった発想は少なくなっていくと思いますよ。現状は「モノや場所」経由で得られる選択肢が圧倒的に多いので、どうしても都市が有利になってしまっているだけです。

でも、デジタル技術経由で基盤を拡散できるようにすれば、どこにいても選択肢が増えていくと思っています。

―― 具体的にはどのようなことでしょうか。

豊田 例えば、子育て世代がどうしても都心に「吸い上げられる」という課題があります。理由としては、仕事が都心により多くあることと、一般的に「良い」とされる学校や学習機会が都心にあり、競争力があるからです。

でも、都心に住まわれるどのご家庭も「都心だけで100%育てたい」かと言えば、おそらくそうではないですよね。

森や川で遊ばせて育てたいという思いもあれば、両親の地元の伝統芸能を継承させたいといった思いもあるかもしれません。

でも、現状の定住は、100か0かの二択を迫ります。都心を選ばざるを得ないから都心に向かうだけですよね。もしそれを「グラデーション」にすることができれば、生活の三割は都心、三割は両親の地元、一割はリゾートなどといった混在した育て方が可能になります。それはひとつの理想だと思いませんか。

―― 考えただけでワクワクしますね。

豊田 それを可能にする一つの技術がデジタル基盤です。

例えば「ZOOM」よりずっと密度の高いコミュニケーションが可能なデジタル基盤があれば、地方から都心の学校の授業にも参加できますし、逆も然りです。

期間限定で地方に住んで、地元の森の菌類を研究することが学校の単位で認められるような「スキーム・ディー」的なシステムが全世代の教育にもあれば、より自発的な国際人材が育つことに繋がるかもしれない。

都会ではできない教育の場を提供できることが、地方の強さのひとつですと。

―― 「地方」とされていた地域にスポットライトが当たりますね。

豊田 地方の課題の一つには、「ハイシーズン」だけ盛り上がり、ローシーズンの雇用が維持できないことによる寒暖差からくる“疲弊”があげられます。

こうした人の動きが平準化できれば、むしろ地方が都会にないものを提供して、都会にあるものはデジタル環境がカバーすることが可能になります。

積極的に部分的な地方居住が選べる“仕組み”をどう提供するかが重要です。

―― 住居をどうするのかが難しそうです。

豊田 シェア居住のシステムが盛り上がっていますし、リモート勤務もできるようになりました。あとは技術的、制度的に「リモート教育」が可能になれば、“循環”ができるわけです。

地方が都会に対して100%か0%かの選択を強いる戦いをしても、残念ながら勝ち目はほとんどありません。けれども5%や10%程度の選択を1000人から、薄く広く気軽に集めていくことで、十分な経済価値を引き出す可能性はあるわけです。

「この地域の渓谷では何々が採れる」「うちはキビ栽培が盛んです」……そこならではの強さ、それこそが産業であり、伝統芸能でもあり、歴史風土です。

そうしたデジタル基盤では伝達できない、統合的なキャラクターや独自の物語をいかに強くしていくかということが、離散的な選択の中で選ばれる可能性が強まることになるんだと思います。

「想いの“宿りしろ”がない」。気鋭の建築家が語る老人ホームの建築論

―― 高齢者の方々は「生き字引」じゃないですが、その地方の特色を誰よりも熟知している存在ですよね。先導できる存在になり得るのではないか?と考えたのですが、そういった可能性はありますか。

豊田 特に教育が学校に閉じず、さらにはSTEAM(※)やリカレント教育など多様な学びの形が求められる中で、とても重要なポイントだと思います。高齢者に限らず、多種多様な人材が双方向に教えられる場を提供することがリモート教育です。

要は人が移動しても、教育の場所や主体が移動しても良くて、教える人や教わる人、それぞれの場所の組み合わせが自由になる、ということです。例えば、学区の領域を超えて、同じ学校に「通学」しながら子供が海外で一か月過ごすことや、軽井沢で2か月過ごすみたいなことがリモート教育で可能になる。

飛騨高山のおじいちゃんが渋谷の高校生に木工の授業をする、渋谷のクリエイターが離島の小学校の子に授業をするようなことも認められるようになることだと思いますので、地方に「埋もれている」高齢者の方々や、いわゆる「リタイア」された人材も活躍できます。技術とともに、人材シェアができるネットワークとしての教育基盤も構築されていくと思いますね。

※ 文系や理系といった従来的な教科の枠にとらわれず、実社会での問題発見・解決に生かしていくための教科等横断的な学習

高齢社会に思うこと

―― 今回の取材にあたり、「子育てしながら建築を仕事にする」も拝見しました。

パートナーの蔡佳萱さんのお話となりますが、50人近いご家族のみなさんが一堂に集まって食事をする機会が定期的にあるそうですね。みんなで見守る環境ができているので、もしお祖母様の生活機能が低下していてもすぐに分かる、というお話にとても感銘を受けました。

豊田さんのご家族のお話も伺えますか。

豊田 私の父は、脳梗塞を一度発症しています。幸い重度ではありませんでしたが、言語と機能麻痺が若干残り、週に何度かヘルパーさんに生活補助をお願いしていました。

今は回復し、ヘルパーさんにもお願いしないでいいような状況なので、「ラッキーだった」としか言いようがないのですが……。 ヘルパーさんにお願いしていた期間は、毎週、実家のある千葉に帰ってちょっとした「手助け」をしていました。「近い」ことは大事だとその時は身にしみましたね。

―― 介護サービスについてはどのような思いを抱かれましたか。

豊田 社会システムとしての公共サービスが「階層的」にあることを知らなかったので、それはものすごく有難かったですよ。普段は気にしていなかったサポートが突然必要になる中で、そうした選択肢を常に維持している公共の仕組みのありがたさも身に沁みました。

―― サービス維持が今後の課題だと思います。高齢社会についてのお考えもお伺いできますか。

豊田 高齢者という「括り」で、元気な高齢者の方々と例えば介護を必要とする高齢者を一緒くたに考えてはいけないと思いますね。

ただ、循環性や流動性が低いことを背景にした年功序列の日本の社会では、高齢者が多くなることは、介護の負担だけでなく、社会の生産性という意味でもデメリットになり得ます、新陳代謝が起こりづらいので。流動性やグラデーションを確保するシステムのデザインは重要だと思います。

―― 今の社会に必要なことはどのようなことなのでしょうか。

豊田 もちろん前提として、高齢者をケアしてリスペクトする姿勢や価値観は日常の中に絶対にあるべきだし、「地下鉄で高齢者に席を譲るのが恥ずかしい」みたいな社会的な雰囲気もときおり感じます。もっと行動にうつすことを評価する流れは意識していきたいですよね。

―― 高齢化と同様に核家族の増加による親世代の疲弊も課題になっています。

豊田 子育ても高齢者のケアも近しいと思います。家族の誰か一人に責任を負わせていないか、と。

いかに家族や親族、拡張的な集団でゆるくシェアできるか、もしそれができない場合は、いわゆるビジネスとしての拡張家族的なことを認めていく……いや、もうやらざるを得ないことだと思うんですが、社会的な価値観はそう簡単に変わらないですからね。

どうやったって高齢者が多く、核家族も多いわけですから、ケアの手段を一部でも「外」に出すことも時代の流れと割り切って、積極的に社会が評価するように誘導することも必要だと思います。

―― 「外」というのはどのようなことでしょうか。

豊田 日本社会がいまだ暗黙のうちに求めている、「家庭内で責任を閉じる、特に主婦が対応するべき」という、大家族家父長制だからこそ成立していた“前時代的な責任単位”の「外」ですね。

これが核家族になってしまうと、「バッファ」がどこにもないので、家族だけでは介護できない状態になったら、介護施設にケアをお願いするのは必然であり自然、ということです。

一方で重要なことは、「外」の介護施設や病院なりが、いかにそのシステムとして安易に「閉じないか」です。

さきほどの教育の話にもなりますが、義務教育の何単位かは、例えば「地元の老人ホームに行って毎週掃除するだけで取得できる」、あるいは「給食の手伝いなどでいい」といったかたちで教育の一環として単位に入ってくるなどもあっていいと思います。

おじいちゃんおばあちゃんも、「元気な方は月に1回『必ず』保育園でお話をしてください」と。何を語ってもいいので。

教員免許を持つ方と学生の間だけで教室を閉じない。老人ホームは介護者と被介護者で閉じない。いうほど簡単ではないことは重々承知で、こればかりはシステムで解決するしかしょうがないと思いますが、これからのよりシステム化された社会では、あえて「閉じない」ことが重要になると思います。

一見矛盾するようですが、大規模なシステムであればあるほど、ルールから外れた変化の要素が大事になるんです。

「想いの“宿りしろ”がない」。気鋭の建築家が語る老人ホームの建築論

老人ホームの建築的な評価軸

―― 続いて老人ホームの建築について伺います。

老人ホームはややもすると、「高級orコストパフォーマンスがいい」といった2軸で語られがちです。建築家としてのご意見をお聞かせください。

豊田 建築家の目線で「良い」老人ホームかどうかを見るとすれば……最初に気になるのは、質感・素材感のリアリティですね。

一般に介護施設では「安全で耐久性が高い」素材を使う傾向がありますよね。機能的にも制約的にも病院建築に近いと思います。

でも、人間の五感を超えた無意識は、何かに触れたときに「本物の木か、プラスチックの印刷物か」とか、「歩いたときに感じるフローリングの厚さ」など、多様な情報の総体を、私たちが自分で理解している以上に判別しているんです。

安全だけれども、“余白”がない環境にいると、こうした無意識への刺激が薄れ、人間は認知機能がどんどん低下していきます。だからこそ、老人ホームのような施設こそ、より個性ある“リッチ”な素材感を持たせるべきだとは感じています。

―― 素材感は入居者の方にとっても重要な要素ですね。

豊田 安全と法的な適合性と管理しやすさから見ると、どうしてもああなってしまうんですよね。表面的な“高級感”や“安全”というのは、計算できる数値だけで進めれば「ああなるよね」という現実は、僕も建築実務をする立場からよくわかります。ただ、予定調和って刺激がないし、同じ環境下で管理されてばかりいれば、認知機能の低下をどうしても早める可能性は高くなるだろうと思います。

例えば昔からある「集落」のような場所に住んでいるお年寄りって、日常のコミュニケーションもあるし、いろいろな危険や責任もある中で、やっぱり認知症の症状が出にくい状況あると思うんです。

ちょっと買い物をするにしても道の作りもガタガタだし、階段をたくさん上んなきゃいけない、変な曲がり角があって向こうに行くと、やっとタバコ屋があって、ちょっと挨拶をしてその先のポストに投函してと、常に何か刺激がある。

日常的にそういうことをやっているだけでなく、「あそこは冬に凍る」とか、「雨が降ればここはぬかるむ」みたいなことへの対応も自分の意識と自分の肉体を使って常時行っているからこそ、脳や身体の活性を維持できるんだと思います。

完全に安全で迷わずに怪我をしない場所で、与えられたことしかしない環境にいれば、僕はこの分野の専門家ではないので何か統計を知っているわけではないですが、やはり緊張感は維持しづらいだろうなと。

―― 個人的な話で恐縮ですが、私の祖母がグループホームに入居しています。語弊がありますが、認知症の症状が進んでしまっている祖母の表情が面会の度に乏しくなっているように感じます。

豊田 遺伝、科学的な要因も当然ありますが、環境依存な部分も少なからずあると思います。環境がプラスアルファで進行を助長するというね。もちろん僕は何か専門的に調べたわけではないのですが、一般的な感覚としては、やはりその傾向はあるように感じています。

―― そもそも環境というのは、人が作り出すのでしょうか。あるいは環境が「自発的」にそういうふうになっていくのでしょうか。

豊田 いわゆる「集落」を例にあげれば、誰がデザインするわけでもなく自然発生的にできちゃったものなので、いろんなところに“非合理”がたくさんあります。でも、なんだかんだと人にはなじみやすい構成をしていて、「風変り」だけれども、そこに親しみや思いを込めやすい。それが重要だと思うんですね。

もちろん新しく建てる老人ホームに、上りにくい階段とか狭い角とか必要のない鳥居とか、そういった不合理をあえてデザインするということは、当然期待できません。でも、その昔ながらの集落をはじめとした、「均質ではないもの」や、「合理性だけでは理解できないけれどあるといい『何か』」が、そこここに混ざっている環境は、デザインできると思うんです。無意識の活性化環境は設計可能だと思います。

―― 無意識に知覚しているものをデザインするんですね。

豊田 そうです。人間は意識だけで物事の判断とか効果を評価しようとしちゃうんですけど、人間の知覚や感覚、認知って無意識の領域の方が圧倒的に大きいわけです。

無駄のように見えるけれど、実は無意識に大きく働きかける要素をいかに効果的に織り込むか、無意識に働きかけるものを意識的にデザインできるかが重要です。

その無意識の部分をいかに刺激して、周囲の人と共有できる愛着とか危機感、意識の共有みたいなものをいかにうまく日常の中で引き出してあげるかみたいなのが、多分こうした施設の建築環境が提供できる「財産」だと思います。

―― 以前、祖母が施設の暮らしに「愛着が持てない」と言っていたことを思い出しました。

豊田 耐火基準と安全性と汚れないとかだけで全部できてしまうと、想いの「宿りしろ」ができないんですよ。

―― 「しろ」というのは、“のりしろ”の「しろ」ですよね。余白ということでしょうか。

豊田 そう、「思いが宿ってくれる」「何かがいてくれる」「何かがここに宿って見ててくれている」という、人が見る対象に無意識に投影してしまう思いの「宿りしろ」です。

日本の神社の大半はもともと、岩や木、山に「何かが宿ってそう」と勝手に想像して、「宿りやすそうなところ」に神が宿ると多くの人が感じることで、それが神社となったわけです。

山を仰ぐための社殿や岩を守るための社殿ができて……という流れで、徐々にそうした建築や鳥居のような人工物自体がむしろ神を表現するものに変化していく。

例えば諏訪の御柱や、伊勢神宮の社殿の中にあるという柱などもそうですが、「柱」というのはとても分かりやすい「宿りしろ」なわけですね。「ここにはただのモノ以上の何かがありそうだぞ」っていう感覚をみんなで共有できるところに、意識の投影としての神を「見る」わけです。

老人ホームを建設する際にはそんな大層なものじゃなくてもいいんです。でも、やっぱり愛される建築とかデザインには、「この椅子の座った感じ」とか、「このテーブルのここの丸み」とか、「この切り口がねえ」という思いの「宿りしろ」がそこここにあります。

正しさだけでつくられた建築ってどこにも宿りしろがない。今の老人ホームもとにかく宿りしろを省く流れですよね。宿りしろになるものって、経済や法律の視点で見れば必要のないものですから。

「想いの“宿りしろ”がない」。気鋭の建築家が語る老人ホームの建築論

―― 「宿りしろ」は無駄なのでしょうか。

豊田 「宿りしろ」は、足りないところにも余分なところにも生まれます。“そこ”に何かいろんな人の気が向かうとか、“そこ”をとにかく迂回しなきゃいけない……それはそれで好まれない「宿りしろ」にもなりうるんですが、でもそういういろんな人の思いと行為の蓄積が、積もり積もってコミュニティで共有される「愛着」になります。

世話がかかるからこそ子どもがかわいい、みたいな。

―― 対人関係も同じですね。

豊田 決まり切った動作しかしないロボット同士の関係というか、家族が無駄なことを何もしない淡白な関係になったら、多分、つまらないと思います。建築との関係も同じですよね。不合理や不整合、何かバランスが崩れているちょっと勝手な存在って、日常の中で思うよりずっと大事なんです。

―― 介護は人の手が大事にされている意味が少し分かりました。建築に対するアンチテーゼなのかもしれません。

豊田 ぜひ、「『宿りしろ』を介護施設に積極的に加える」、そんな動きを評価する流れを作っていただきたいです。

―― ちなみに建築家の方が老人ホームを見られた際には皆さん、そういうお考えになるのでしょうか。

豊田 表現の仕方は人により違うと思いますが、違和感としてはだいたい共通すると思います。 ただ、ちょっと違った要素を介護施設の建築や運営のしかたで試みている方もいっぱいいますよ。

経済的にも安全面でも何かしらのリスクが当然出てくる中で、それでも「多少のリスクがあっても、よりよい施設にしたい」という事業者さんもいるんだと思います。

―― 建築で解決できる介護現場の課題があれば教えてください。

豊田 先ほどもお伝えしましたが、例えば認知機能の維持については、どうアンバランスを作るかがすごく大事だと思います。

足りないところをあえて作る、無駄なところをあえて作る、と。そうすることで、工夫が生まれ、意識が生まれますから。もちろんただ使いにくくすればいいということではなくて、思い入れや愛着が宿りやすい工夫を会話しながら作りこんでいく、ということなんだと思います。

生きる意味を教えてください!

―― 大変興味深いお話を伺うことができました。最後に人が生きる意味を教えてください。

豊田 答えようがないですよ(笑)。……ううん、しいて言うなら、誰かに想われていることを実感したいってことなんですかね。地球の反対側で誰かが一瞬でも自分のことを何かしら想ってくれている、と。それは家族の愛情でもいいし、友人関係でもいいし、SNSの仲間でもいい。「あいつ、どうしているかな」っていうのを誰かが想ってくれている実感を持ちたいっていうことなんだと思うので。

そのために何か「良いこと」をしたり、仕事をしたり、贈り物をしたりするんだと思います。そのギブアンドテイクの安定供給を維持するために、社会ってできてるような気がしますね。

―― ありがとうございます。お子様に「生きる意味を教えて!」と、聞かれたら、今のようなお答えをされますか。

豊田 さすがに抽象的すぎるので、子どもに聞かれたら、「死ぬときにやりたいことをやれたなって思えるかどうか」ってことを伝えると思います。そう思えるように、いつ死ぬかわかんないけど、いつ死んだとしても、やりたいことを十分やったなと思えるように、と……。

本末転倒な話になっちゃうんですけど。子供にはそういう言い方をするかもしれないですね。その一環として、誰かを想う、誰かに想われるっていうことも、ついてくると思うんです。

「想いの“宿りしろ”がない」。気鋭の建築家が語る老人ホームの建築論


撮影:宮本信義

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