「職業、山口瞳の息子。僕は失業しました」
“昭和”に愛された偉大な作家・山口瞳氏を父親に持つ山口正介氏にとって、その別れは「解放」か「後悔」か。
父母への思い、老いへの気づき、人生について……作家・山口正介氏のいまを知る。
息子への手紙
―― 本日はよろしくお願いします。
お父さまのデビュー作であり直木賞受賞作品でもある「江分利満氏の優雅な生活」に登場する「息子・庄助」は、正介さんがモデルですよね。「有名人の息子」としての“悩み”はなかったのでしょうか。
山口 「江分利満」には、僕が小児喘息だったことが書かれているんだけれども、初対面の方からいきなり「喘息で大変そうですね」なんて言われたこともありました。成人してからも「身体の方はもういいんですか?」と聞かれたことも。
状況を逐一説明してもいいんだけど、向こうはもう「瞳先生はこういうふうに書いてましたよ!」って僕より「僕」のことが詳しかったりするから。
―― (笑)。「江分利満氏の優雅な生活」は、昭和30年代の典型的なサラリーマンをコミカルに描き出して人気を博しましたよね。
正介さんのご著書には、「父が自分に何かを教え諭すことはめったになかった」ということが書かれていますが、瞳さんの「教育」についても伺えますか。
山口 「江分利満」で直木賞を受賞した後は、週刊新潮で「男性自身」というエッセイを始めたんです。当然、それを僕も読んでいたわけですよ。教え諭すもなにも、親父から「人生をいかに進むべきか」という手紙をもらっているようなものでしたから。
―― 正介さんにお目にかかるのは本日が初めてですが、初めてお会いする気がしません。瞳さんの作品に正介さんが“詳らか”に書かれていることも理由の一つだと思いますが、多感な時期ゆえの反発はありませんでしたか。
山口 「俺のことはネタに使うなよ」という気持ちは少しあったかな。「そこまで書かないでよ」って。でも、反抗みたいな思いではなかった……親父に対してはね。
―― 一度だけ記事を代筆されているそうですが、瞳さんの“文体”についてはどう考えられていますか。
山口 “昨日”一緒にいたことを次の週の「男性自身」で書いていたりすることがありましたから、「ああいうところを見ていて、こういうふうに書くんだな」と、勉強になりましたよ。その場で僕が聞いたことと同じセリフがそこに書かれているわけですから。
だから何て言うのかな。……写真を撮られているなら少しお行儀よくしないと。

―― (笑)。
山口 僕にとってはそういう日々が、文章修行でした。
もちろん簡単だとは言わないけれども、「なるほど。こうやるのか」って言ったことがあって。父を師としてくださった常盤新平先生がそれを聞いて、「正介さん、そんな簡単に分かられちゃたまんない。僕なんかはいくらやっても分からないのに」って。
―― センスなのでしょうか。親子ならではのものなのでしょうか。
山口 例えば、安部公房さんの文体は非常に特殊ですよね。安部さんの文章には「ジョーク」というか、人が考えつかないようなことが多分に含まれています。
もうお亡くなりになりましたが、娘さんのねりさんに伺ったお話があります。親戚中、みなさん同じしゃべり方をされているそうなんですよ。どんな冗談を言うか、というところもね―― 環境から生まれた文体でもあると。
山口 うちも一家で歌舞伎と落語が大好きで、日常会話がそのまま落語なんですよ。
「芸能一家」とでもいうのかな。ジェリー伊藤と結婚した伯母は日本舞踊家でしたし、もう一人の叔母さんも、江戸時代から続く長唄の“お師匠さん”と結婚しましたから。むしろうちの親父が一番……「まとも」なんですよ。
―― 華やかで賑やかなご家庭が想像されます。
山口 山口家の子どもたちは、みんな長唄を習っていたようです。長唄のフレーズって「東京」のアクセントなんです。祖母は東京の言葉に非常に「厳しく」て、墨田区の向島から“嫁いできた”母は、「あんた随分訛るわね」なんて祖母から言われていたそうで。
実は母方の祖父母が大阪の堺の生まれなんですよ。向島に引っ越してきてからも、関西弁が少しだけ残っていたみたいです。優劣ではなく、東京のアクセントを大事にしていたんですよ、山口家は。
親父の文章は、そうして喋っていることをそのまま書き写すような文章です。
―― 瞳さんの文章も正介さんの文章も、淀みなく情景が浮かびます。
山口 言葉を「音」にしていると思うんです、頭の中でね。
「文章読本」みたいな言い方をすれば、辞書を引かなければ分からないような言葉や流行語は文章に使わない。
ただ、親父は何しろサントリーでコピーライターをやっていたぐらいだから、流行には敏感で新しい言葉もよく分かっていた。だから、そういう言葉を使うときには必ず「ここは流行語なんで2、3年たつと古くなりますよ」という書き方をしている。
―― 「男性自身」は、「新潮社の天皇」とも呼ばれていた斎藤十一さんからの依頼で連載が開始されたそうですね。「山口瞳は天才だ」と手放しで賞賛して、原稿をほとんど直さなかったとも。
瞳さんは、読者のことを第一に考えて文章を書かれていたのでしょうか。
山口 「校閲の方や植工の方を考えて書いてる」とは言っていたよね。ほら、読めない字を原稿に書く人がいるでしょう。昔は活字を“拾う”から(※)、原稿が読めないのはそういう方々に失礼だ。
……いや、失礼ではなく「あっちゃならない」と。親父の生原稿はすごくきれいですよ。
※ 活版印刷が行われていた時代の話。金属に字形が刻まれた「活字」を原稿に照らし合わせて選択・並べて、組版と呼ばれる配置(レイアウト作業)を行っていたため、「拾う」という表現が用いられた。その組版を転写して印刷することを活版印刷と言う。
―― 原稿用紙も絶対に破らなかったそうですね。原稿用紙を大事にされていた、と。
山口 それは単なる“ケチ”なんじゃないの。
―― (笑)。

老いについて
―― 「男性自身」は、連載が開始した1963年から、瞳さんが亡くなるまでの1995年までの連載期間で、掲載されなかったことが一度としてなかったそうですね。掲載回数も当時のギネス記録級だったとも。
山口 そう。申請すれば承認されていたのかもしれない。でも、「サントリーにお世話になっているのに、ギネスもないだろう」ということでね。
―― 瞳さんらしいエピソードです。
30年以上の連載を一番近い場所で見られていて、瞳さんが年齢を重ねていくことに対する影響を感じられたことはありましたか。
山口 文章に関しては全くなかったね。
一度、親父は『男性自身』を日記体にしたんですよ、60歳ぐらいのときかな。そのときに断筆宣言もしていて。
だけどさ、うちの親父はすごく“いい加減”だから、みなさんから「執筆業をやめるんですか?」と聞かれると、「連載は続けます」と。いかにも親父らしいんだけど、「連載中止は掲載していた雑誌に申し訳ない」って。
僕が一度だけ代筆したのはその時期なんですよ。当時、サントリーのある方から執筆依頼があったんですが、親父はもう本当に「死にそう」だった。その何年後かに肺癌が見つかるんですが、発見時には「手遅れ」な状況だったから、「断筆宣言」前後で、何かしら自身に対して思うところがあったのかもしれない。
―― 肉体的な衰えも見られませんでしたか。
山口 そうですね……親父は“この世ならぬもの”みたいなものは信じていないのに、どこか超能力的なところがありました。
例えば、視聴者参加型のクイズ番組を家族で見ていると、クイズの答えではなく、「今日はこの人が勝つよ」と。参加者をぱっと見て、本当に当てちゃうんだ。
―― “トリック”があったのではないでしょうか。
山口 いや、それは分からない。
「顔を見ればわかるだろう」って言うんだよ。「勝つ顔をしている」「優勝するのはこの人」「今日はこのチーム」って。
老いを感じたことをあげるとすれば、それが晩年に外れるようになったことかな。野球の中継なんかを見ていても、百発百中で球種を当てていたのに。
―― そのような能力は正介さんにもありますか。
山口 全くないです。一つぐらい欲しいものですが。
一時期、「スプーン曲げ」なるものが流行ったことをご存知ですか。
―― 70年代にユリゲラーが登場したころですか。
山口 当時、小説家の仲間内でも話題になって、あるスプーン曲げ少年に遊びに来てもらったことがあったそうです。
そのとき、うちの親父が手を動かすと、カウンターに置いたスプーンが少しだけすっと動いたようで。
―― にわかには信じがたいのですが、瞳さんなら……と思わされてしまいます。
山口 僕も見たわけじゃないし、いつでも再現できたわけじゃないみたいだけど。ただ、決してそういうことを書くことはなかったね。
―― 正介さんは「老い」についてどのようにお考えですか。あるいはご自身で老いを感じられる瞬間はありますか。
山口 手の甲の皮膚がさ、昨年ぐらいから“老人”の小じわがよった皮膚になったなあと気付いたときには少しね。
でも、どうなんだろう。それほど考えたことはないかな。幼少期、僕は非常に病弱だったんですよ。親父も「この子は二十歳まで生きないんじゃないか」なんて言い方をしたぐらい。 変な言い方だけれども、段々と健康になっている人生だから、老いというのをずっと感じていなかったし、考えもしなかったんですよ。
演劇関係の大学に進学したから、発声練習や柔軟体操をする授業があったんです。その授業を通じて喘息が治っちゃったんだよね。それからは自分でも色々と気をつけるようにしていて。
さすがにこの数年は転ぶことがあったろ、随分長いこと駆け出してないなあとは思います。走れば間に合うけど、走ったら「死んじゃうかもしれない」なんて考えるときもありますし。
―― ご著書にも詳しいのですが、瞳さんもお母さまの治子さんも、ホスピスで「最期」を迎えていますよね。ご家族をホスピスで看取ったご経験から、「死」に対して思うことがありましたら教えてください。
山口 いまは一人で住んでいるので、「孤独死」については考えますよ。
2019年の暮れから2020年の正月にかけて“変な風邪”をひいて、咳がすごく残ったんです。今にして思えば、コロナウイルスに感染していた可能性が高いですよね。そのときに「ここでこのまま死んじゃったら、典型的な孤独死だな」なんて思って。
―― どのような感情でしたか。
山口 「後片付け」が面倒くさいだろうな。
―― (笑)。
山口 新聞を定期購読していて、集金に直接来てもらうようにしているんです。
10年ぐらい前に、新聞の集金の方が孤独死を発見したという出来事が近所であって……便利だなと思ってね。
―― 笑っていいものなのか。
山口 ブラックジョークは山口家の特徴ですから。

介護について
―― 介護についてのお話も伺いたいです。
もし、身体機能が低下すれば、「プロの手」を借りるという選択肢はお持ちですか。
山口 どうなんですかね。父のときも母のときも色々考えましたけど、結果的に両親ともそういう手間暇なく死んじゃったんですよ。
本当にまあ冗談半分に「子ども孝行」の親でした。
―― 瞳さんは肺がんが原因でお亡くなりになっていますよね。私事で恐縮ですが、私の父も肺がんを患っていてステージⅣです。命に限りが見える親に対して、子どもはどのようなことをすべきだとお考えですか。
山口 一番難しい質問だよね。
……僕もね、父のときのことも、母のときのことも、いまだに後悔しているもの。「なにをすれば良かったのか?」って。父の27回忌を迎え、母が亡くなってからは12年が経ちました。父にも母にも聞いておけば良かったことがあります。
でも、これはしょうがないんだと思う。何て言ったら良いのかな。例えば癌だとわかっていれば、会いたい人に会ったり、行きたいところに行けたりするのかもしれないし。 父の場合は、発見時に縦隔(右肺と左肺の間)にがん細胞が転移していて、何もできませんでした。ただ、最後に「かみのやま温泉」に気の合う人たちと――ごく小人数だけどね――行ってさ。後悔していることと言えば、私も一緒に行けばよかったな、と。
当時、親父が「悪い」ことを僕は知っていたけれども、親父は告知されていなかった。だから、「最後の旅になる」という思いを隠し通せる自信が僕にはなかったんです。……それでまた、うちの親父ってサービス精神だけはすごいわけ。友人だけでなく、旅館の方々にも「逆サービス」をするようなタイプで。そういうことはすごく疲れるだろうし、僕自身がそれを見るのも「つらいだろうな」と思って。
それで僕はやめちゃったんだけど、今にして思えば一緒に行っておけば良かったかな、と。
母のときもそう。「生まれた場所を最後に見たい」と言われたんですが、連れて行ってあげられなかった。墨田区の向島なので大した距離ではないんだけれども、思うこともあって。
戦中、母は神奈川県の鵠沼に疎開していて、戦後もそのままそこに居たんです。山口家も戦後は鎌倉に住んでいたことがあって、「鎌倉アカデミア」という学校で二人は出会って結婚しました。
その鵠沼の土地はもう売却済みなんですが、母が元気だったころに二人で行ってみたことがあるんです。
現地に着いてみると、建物は変わっていたけど、敷地はそのまま残っていて。土地を売った相手方はその近所に住まわれていた方みたいで、表札を見たらお名前がまだ変わっていなかったんです。「あの人たちはまだここに住んでいるんだ」なんて話をしていたら、母が泣き出しちゃったんだよ。
元気なときですらあの様子だったから、ホスピスへの入院を検討していたような「最期」に、生まれたところを見に行ったりしたらと思うとね。
それでも行った方が良かったのかもしれない。

―― ありがとうございます。「親孝行ができた」と感じられたことがありましたら教えていただけますか。
山口 母について言えば、ホスピスに入院するまでは自宅に居られたことは良かったんじゃないかな。
僕は今でいうヤングケアラーだったと思っています。簡単に言うと、母が亡くなるまで僕には門限があったわけですよ、60歳まで。僕を産んだのち、「産後うつ」の症状が引き金となって、不安神経症を患ってしまったんです。回復しないまま一生を過ごすこととなって、一人では電車やバスに乗れなかったんです。
母を知っている人からすれば「どこが悪いんですか?」なんて感じなのは、“そとづら”がすごくいいし、頭もすごくいいから。でも、それはあくまでも親父か僕が「常に」そばにいる状態だからなんですよ。
父が偶然というか、作家として成功したので、常時タクシー移動ができるような生活になったけれども、父がもし「一般的なサラリーマン」として一生を送るようだったら、母はどうなっていたかとは考えますよ。
近所ですら一人で買い物に行けないので。
―― まさにヤングケアラーですね。
山口 「就職なんてするな」と言われるような人生でした。いや、就職しても例えば単身赴任はできないし、「婚姻しても近くに住んでくれ」と言われていました。
どんな人も「家」を出るわけじゃないですか。言い訳になっちゃうかもしれないけども、それは僕にとって「親を捨てる」ように思えた。それはできなかったんだよね、僕自身の弱さでもあるんだけど。
―― 弱さですか。
山口 勇気がなかったんです。
―― お母さまの治子さんに対する責任感もあったのでしょうか。
山口 そうだと思う。「ママ、死んじゃうから」って言うんだもの、一人にしたら。
地獄の底から聞こえてくるような声で言うんですよ。体験した人じゃないと分からないと思うけど。だから、僕ができることはしたつもりではいます。
それでもさ、「パパもママも優秀だったのに、あんたは何よ」なんて言われるときもあって。それはそうなのかもしれないけどさ。
―― 瞳さんが亡くなられたことに対して、「職業、山口瞳の息子。僕は失業しました」と書かれていたことがすごく印象的でした。
山口 今回の取材もそうなのかもしれないけど、「瞳の息子」としか世の中で言われないから。まあ、退職したつもりが、親父のことを未だに書いて、生活をしているわけで。
親父が死んだときと、母が死んだときに1冊ずつ本を書いたんです。自分としては介護のことやホスピスへの入院を考えている方の「参考書」として、取り上げていただけるんじゃないかと思って書きました。
ところが、今日までどこからもそういうお話をいただけなくて。小説家が死んだ話と、小説家の妻が死んだ話としてしか取り扱われなくてね。だから今日はちょっとありがたいと思っています。

人生について
―― ありがとうございました。最後の質問になります。人が生きる意味をどのようにお考えですか。
山口 人が生きる意味? 難しいことを言わないでくれ。……人が生きる意味ってなんだろうなあ。
与えられたものなり、その条件なりで、それを一つ一つ積み重ねていくしかないんだと今は思っています。
―― 「今は」というのは、どこかのタイミングでそのような思いが芽生えたということでしょうか?
山口 歳を取るとね、「やること」が沢山あるんだよ。
例えば、もちろん朝起きることから始まって、トイレに行くこと、朝ご飯を作ること、食べること、歯を磨くこと……何から何まで。若い頃はそんなことを全然気にしていなかったんだけどさ。時間もかかるんだよ。
若い頃なら起きて30分ぐらいで家を出ていたと思う。それが今はずいぶんかかる。
朝飯だっていまはルーティンで決まったものを作って食べるようにしています。「ボケ」ても体が動くように全部同じことを毎日やろうとしているんだけど、これがなかなか難しい。
「あれっ?」と思うことがあって。皿をこっちへ運ぶと、「あれ?なんで運んだんだ」って。……「ボケ」てんのかな俺。

―― いえ、まったく。
山口 今日だってここに来るというテーマを作って、そのためには「これとこれをしなきゃいけない」と決めたことを行っていくんです。これが「生きる」ことだと思うんですよね。
明後日は、母の13回忌なので墓参りに行きます。浦和まで。そのための準備やお寺に連絡をすることやなんかっていうことも、結局そういうことの積み重ねだと思うんですよ。その「生きる」ということのね。
何もないよりは随分いいとは思っています。皿洗いなんかも慣れると意外と手際よくできるようになるんですよ。母は最後の最後まで、台所仕事なんかを全部やっていたんだけど、今は僕一人なのですべて自分でやります。
最初の頃は億劫だなあと思ったんだけど、最近はそれほどかからないな、なんて思っています。
禅寺の修行であったなあ、と思ってね。禅寺の僧侶たちは、修行の一環で自分の食器を洗うじゃない。座る座禅もあるけど、動く禅というのも、こういうことなのかなと思いつつ皿洗いを。……それにしちゃあ何にも悟らない。
―― (笑)。
山口 たださ、そんなことでも生きる糧になるとは思っています。それこそ庭で木の花が咲くだけでもいいと思う。庭先で綺麗に咲くんです。
そうかと思うと、木が枯れたりしてね。おかげさまでそういうことを書いてもいいようなエッセイのコーナーをいただいています。
それも生きる意味というか、糧と言うかね、課題ですよ。……本当言うと、もう少し“儲かりたい”けど。
―― (笑)。ありがとうございました。最後に撮影させていただけますか。
山口 はい。もしよかったら著者近影として、ポートレートを1枚ご寄贈いただけませんか?……あるいは遺影として。

撮影:宮本信義