『うそつきのつき』で第46回小学館児童出版文化賞、『森の絵本』で第31回講談社出版文化賞絵本賞など、数々の賞を受賞してきた絵本作家・荒井良二(あらい・りょうじ)さん。独特の発想や作風を生み出す土壌を育んだ子ども時代をひもときます。


■絵でコミュニケーションする

荒井良二さんは1956年、山形県山形市に生まれました。男3人兄弟の末っ子。家にいるときはいつも絵を描いている子どもでした。9歳上のお兄さんにおさがりの算数のノートをもらったら、白いページをすぐに絵で埋め尽くし、それでは足りなくて、数式の上にまで絵を描いていたほどです。
小学校低学年のときは、学校があまり好きでなく、朝のホームルームが終わるとすぐに家に帰ってしまう毎日でした。食事もできなくなって、とうとう栄養失調に。
心配した先生は、何か役目があれば学校に来られるだろうと、荒井さんの得意なことを役目にしようと考えました。それは歌うことや絵を描くこと。給食の時間に放送室で歌ったり、絵のコンテストや研究発表にかりだされたり。3年生のころにはみんなに絵がうまいと認められ、野球選手の似顔絵や漫画の1コマを描いてとせがまれるようになりました。誰かに望まれて絵を描いて、それを見た人が喜んでくれる。学校にも行けるようになり、描くことがますます楽しくなっていきました。

大人相手にしゃべるのは得意ではなかったため、絵を描くことで、ことばを使わずにコミュニケーションしていたのです。

■絵を描くことを仕事に

小学生のころには、絵を描くことを仕事にしようと思っていました。でも具体的にどんな仕事があるのかわかりません。石ノ森章太郎の『マンガ家入門』を買って漫画の道具をそろえてみたり。スヌーピーや、サンペの『プチ•ニコラ』を見て、線がしゃれてるなあと思っていました。
中学生のときは、美術の先生に推薦されて、生徒会が作る学校誌で学校の職員全員の似顔絵やカットを描いていました。
荒井さんの絵が初めて印刷物になりました。
絵と同じようにサッカーにも夢中になりました。進学した高校のサッカー部が丸坊主だったため、それが嫌で、山形初のクラブサッカーチームを作ろうということに。けれどけが人が出て、結局立ち消えになりました。そこで美術部に入ります。イーゼルに白いキャンバスを立てて好きな絵を描くということに、少なからず抵抗感がありました。
演劇のポスターのように伝えることや約束ごとがあるものが好きで、公害問題やアフリカの飢餓の問題など、当時ニュースで流れていたことを題材に描くことも多かったそうです。社会とのつながりがないと描く意味がないと思っていたのです。
■『NHK趣味Do楽 荒井良二の絵本じゃあにぃ』より