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「詐欺師」「宗教」「何かうさんくさそう」――。

そんな言葉で揶揄され、バッシングや炎上を幾度となく経験してきたお笑いコンビ、キングコングの西野亮廣さん。
今でこそ風向きも変わり、お笑いの世界でも「西野イジり」の風潮は収束を見せつつある。

が、世間一般には過去のイメージも根強く残る。

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由

西野亮廣●お笑い芸人キングコングのツッコミ。絵本作家。日本最大級のオンラインサロン「西野亮廣エンタメ研究所」主宰。


では、本当の西野亮廣とはどんな男なのか。「過去のことばかり話すのは嫌ですね」と前置きしつつ、ここまでの軌跡を振り返る西野さんの言葉は、今もなお熱を帯びていた。

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芸人を目指したきっかけは好きな女の子の存在

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由



「エンタメで世界を獲る」と宣言している西野さんだが、そもそも芸人を選んだ理由は何だったのか。

「小学2年の頃、クラスに好きな子がいたんですよ。でも、話しかけることが全然できなくて。何とかならないかなと思っていたときに、テレビで『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が放送されたんです。それがむちゃくちゃ面白くて。

翌日に学校でカトちゃんケンちゃんの真似をしたんですよ。
そしたら、ものすごくウケて。大好きだった子からも話しかけてもらえたんです。その経験がもう衝撃で、芸人さんという仕事があるんだと。他の職業に浮気をすることなく、高校卒業後にNSC(吉本総合芸能学院)に入りました」。

「当時は大好きな芸人ばかりだった」と話す西野さん。カトちゃんケンちゃんの他に、とんねるず、ダウンタウン、ナインティナイン、千原兄弟、FUJIWARA、そして好きだったバラエティ番組として『吉本超合金』の名前が挙がった。
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芸人のトップランナーたちは超えられない

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由



1999年にNSCで出会った相方・梶原雄太さんとキングコングを結成。その2年後にはバラエティ番組『はねるのトビラ』でレギュラーに抜擢され、信じられないスピード出世の階段を駆け上がることになる。

「20歳で『はねるのトビラ』がスタートして、24歳のときにゴールデンに上がって視聴率が毎週20%を超えました。キングコングの冠番組もいっぱいいただいて、願ったりかなったりの状況になったんです」。

しかし、と西野さんは続ける。

「神輿は担がれてるし、追い風も吹いている。下駄も履かせてもらってるのに、突き抜けてはないなっていう感覚がありました。


当時、僕はタモリさんと週2ペースで飲みに行ってたんですけど、このままやっていてもこういう先輩方を超えることはないだろうなって。引導を渡すには、全然違う戦いを挑まないといけないなと思ったのが25歳あたりですね」。

違う戦いを挑むためにテレビの仕事からいったん軸足を抜く。その決断が、有名な「(バラエティ番組の)ひな壇に出ない」という発言につながり、スピード出世に対する妬みも相まって芸人からの総バッシングが始まった。
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芸人仲間からのバッシングは「悲しすぎた」

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由



デビュー当時からの嫌がらせは早期出世の副作用だと諦めがつくが、「芸人かくあるべし」という圧力は、ただただ悲しかったと振り返る。

「実力もない若手の僕らがバンって世に出たので、無視とか嫌がらせはデビューのときからずっとありました。若いし、鼻についたんだと思います。それは仕方ないないなと。

でも、『ひな壇に出ろ』っていう先輩たちからの圧力やバッシングは悲しかった。すごく悲しかったですね。僕のものの言い方も良くなかったんでしょうけど」。

西野少年が憧れた芸人はもっと寛容なはずだった。

「僕が思ってた芸人って逆だったんですよ。
お笑いの既存ルールはあるけど、違うことをやってみるっていう人に対して『おもろいやんけ』っていうのが芸人で。『ひな壇以外のやり方で行くの? それ危なくない? おもろいやん!』って。

大御所のタモリさんや鶴瓶師匠は応援してくれましたけど、一世代の上の先輩芸人がこぞって『あいつイタイな』ってなりました。ちょうどTwitterで腐す文化も流行ってて、一般の人の間でも加速した感じですね。僕だけじゃなくて、僕の周りのスタッフも活動がしにくくなりました」。
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ナインティナイン岡村さんとの確執の行方

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由



「僕が出てない『27時間テレビ』の番組の中で、『なんで西野は出ぇへんねん』って若手芸人がみんなで喋ってたときがあって。僕の話より、お笑いをやった方がいいじゃないですか。出るも出ないも僕の自由だし。

真ん中で旗を振ってたのがナイナイの岡村(隆史)さんだったんです。それが衝撃で、今度番組で一緒になったら『タコ殴りしてやろう』って。それ以来、ずっとメラメラしてました(笑)」。

有名な話だが、その後ある番組の企画が二人の仲を取り持つことになる。

「でも、『めちゃイケ』が番組の企画で僕と岡村さんと仲直りさせる機会を作ってくれたので、ちゃらになった感じですね。
僕も先輩に対して使っちゃいけない言葉も使ってたし、反省することもあって、もうやめようと。

『めちゃイケ』のその企画がなければ今でも嫌いかもしれない(笑)。けど、今は大好きでめちゃくちゃ尊敬してます。当時は僕もいろいろ溜まってたんでしょうね」。
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それでも心が折れなかったのは……

誤解だらけの西野亮廣。“詐欺師”と呼ばれた男がそれでも自分を信じた理由



テレビでもSNSでも「西野いじり」や「西野叩き」が猛り狂うなか、心が折れることはなかったのだろうか。

「全然なくて、それが。僕がなんか悪いことをしたんだったら心が折れてたと思うんです。でも、ひな壇以外で活動することがそんなに悪いことか?って。

さんまさんもたけしさんも絵を描いてたし、ダウンタウンの松本さんは『遺書』を書いたし、浜田さんは曲を出してた。ウッチャンナンチャンさんは、ポケットビスケッツ、ブラックビスケッツをやってて、どれも面白かった。

でも、誰もそっちには行かない。噛み付くんであれば上に行けよっていうのはありましたね。言ってることに整合性が取れてないし、時代が回ってきたらこれ全部ひっくり返せるなって思ってました。
だから、ひよることはなかったし、心が折れなかったんだと思います」。


日本最大規模のオンラインサロンの主宰や映画のヒットなど、その後の西野さんの成功は広く知られるところで、状況は間違いなくひっくり返っている。

次回は絵本作家に急転向することになった経緯や、西野さんを成功に導いた仕事術に迫る。

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