▶︎すべての写真を見る「失敗から学ぶ移住」とは……年輪を刻んだ大木のような佇まいで、横浜「カメヤ食堂」のカウンターに立つのはモデルや俳優、映画監督など、平成初期の芸能界で活躍した松岡俊介さん。村上 淳らと並び、’90年代のファッションカルチャーをリードしてきたカリスマのひとりだ。
松岡俊介●1972年東京生まれ。18歳にモデルデビューし、俳優としてTVドラマや映画に出演。自身のアパレルブランドを展開、セレクトショップもオープンするなど、ファッションのカリスマとして時代を牽引する。15年前に南伊豆の古民家に移住、妻・娘4人と暮らす。
松岡俊介●1972年東京生まれ。18歳にモデルデビューし、俳優としてTVドラマや映画に出演。自身のアパレルブランドを展開、セレクトショップもオープンするなど、ファッションのカリスマとして時代を牽引する。13年前に伊豆半島、松崎町の古民家に移住、妻・娘4人と暮らす。現在、単身赴任先の「カメヤ食堂」の店長を務める。
そんな松岡さんが伊豆半島の西南部に位置する松崎町に居を構えてから約13年が経つ。妻と4姉妹の娘の6人家族で暮らすのは標高500メートルの山奥。しかし、近況をうかがうため訪れたのは、松崎町ではなく、松岡さんが一年前から単身赴任で働いている横浜の食堂だ。東京を離れ地方移住したきっかけや今後の展望、イノシシも出没する山での古民家暮らしのリアルについて、前後編に分けてお届けする。
2度の震災に遭遇。計画が頓挫をきたす
20代はモデルやCM、ドラマといった華やかな舞台に立ち、30代は村上 淳とストリートブランドを立ち上げたり、自らがデザイナーを務めるアパレルブランド「マッシュ(MASH)」の旗揚げ、活動の拠点であるセレクトショップ「ドリル(DrILL)」を東京・三宿にオープンするなど、ファッションの世界に身を置いた。
ファッション誌の表紙を飾っていたかつての自分とツーショット。
ファッション誌の表紙を飾っていたかつての自分とツーショット。
(写真提供:松岡俊介)松崎町に行き着いた経緯は何だったのだろうか。 「当時は、服のデザインや販売、展示会やフェスの出店、ネパールでの生産などでずっと締め切りに追われている生活でした。喧騒から逃れたいという気持ちがあったんでしょうね。結婚を機に、伊豆方面で家を探すことになったんです」。
東京・三宿にあった松岡さんのアパレルショップ「DrILL」。2Fは寝泊まりできるので当時は南伊豆とここを拠点にしていた。
東京・三宿にあった松岡さんのアパレルショップ「ドリル」。2Fは寝泊まりできるので当時は松崎町とここを拠点にしていた。(写真提供:松岡俊介)
松崎町と三宿、全国のフェス出店を家族で移動し、慌ただしい多拠点生活を送っていた松岡さん。2011年の東日本大震災を機にドリルを静岡県浜松市に移転させ、2015年には服を生産していたネパールに一家で移住するも、数カ月後にネパール大地震に遭遇し、服の生産はストップ。諸事情が重なり、長年、活動の拠点になっていたドリルも失った。 「日本のスタッフに任せていたドリルの口座が凍結されたり、国内の卸先の閉店も相次いだり、2度の震災で計画がいろいろ頓挫して自分のモチベーションが尽きました。ネパールから帰国後、2009年に購入していた松崎町の家に住むことを覚悟したんです」。
伊豆半島の山奥で“ヒッピー”に転身した理由とは
自身のブランド「マッシュ」の立ち上げと同時に、フェスに出店し始めていた2004年。そこで松岡さんは、その後の人生に影響を与える新しい価値観と出会う。
「30代半ばの頃は世界でも東京が一番だと思ってたし、自分たちで最先端のカルチャーを作っている気にもなってました。そんなときに、地方のフェスで、出会ったことのないおじさんたちに出会うんですよ。彼らは学生運動に参加していた世代のおじさんたちで、自分で火を起こして淹れた珈琲を売ってたり、無農薬栽培の自家野菜を売ってたり」。
「DrILL」の旗を掲げてあらゆるフェスで出店していた。
「ドリル」の旗を掲げてあらゆるフェスで出店していた。(写真提供:松岡俊介)
今では敬意を込めて“先代”と呼ぶ彼らの地に足をつけた生き方は、松岡さんを開眼させた。「彼らの存在は昔から知ってました。でも、学生運動に挫折して社会からいなくなった人たちだろ、みたいな感じでバカにして見てたところがあった。当時は高飛車でもあったんで(笑)。でも、実際に会って話してみると、彼らはとても知的でエレガントだった。手はゴツゴツして分厚くて、いかにも“働く人の手”っていう感じで格好良かったし。英語も喋れて、海外からの留学生を家に住まわせたりして、この人たちすげぇぇ! って」。
フェスは年に40回ほど出店。それを約10年続ける間に家族は6人の大所帯になった。
フェスは年に40回ほど出店。
それを約10年続ける間に家族は6人の大所帯になった。(写真提供:松岡俊介)自身を「最先端病」だと分析する松岡さんは、時代の兆しを誰よりも早くキャッチし、実践するのが得意だという。フェスで出会った先代たちから生きる知恵や知識を受け継ごうと決めたのはいわゆる「半農半X」が世の中で認知されるよりずっと早かった。2009年には、地に足をつける生活にシフトするため、あえて不便の多い松崎町の家を購入した。
社会情勢の変化と隣り合わせの選択
デフレ、感染症、戦争、円安など、社会情勢の悪化は私たちの日常生活を大きく左右する。リスクを最小限に抑えるため、畑を借りて農業にチャレンジしたり、都会を離れて地方に移住したり、電力を自分で賄う方法を模索したりする暮らし。松岡さんが出会った先代たちのような一部の人に限られていたそうした生き方が、今では一般に広がりつつある。俳優の山田孝之さんは今後やってくるかもしれない危機に備え、自給自足のノウハウをみなで学ぶプロジェクト「原点回帰」を開始。山田さんの想いは
オーシャンズでもお伝えした。若い世代の新規農業人口は確実に増えているし、都心を離れ地方に移住する動きも増えている。そんな流れについて、松岡さんはどう思うのか。
「都会に住むことは便利だけど、もし供給や流通が止まったら都会ほどダメになりやすい。田舎に移る目的はそれぞれ違うかもしれないけど、どんどんみんなやるといいよね。
僕は人の真似をするのが嫌いだから、人と違うことをやることに価値を置いてきたけど、こればっかりはね。これからの時代を考えると、みんなどんどん真似して、どんどん教えてもらって、知ってることを人に教えていくっていうことが大切になると思う」。
伊豆の山奥で、なるべく自然と調和する暮らしを実践。
伊豆の山奥で、なるべく自然と調和する暮らしを実践。(写真提供:松岡俊介)
誰よりも早く時代を読み舵を切った松岡さんだが、自分のやり方は下手で雑だと、正直に話す。現在、単身赴任で一人、横浜で暮らす理由もここにある。「かわいがってた後輩が伊豆の家に泊まりに来ていろいろ質問してくるなと思ったら、何カ月後かに、うちよりもいい山に引っ越してました(笑)。僕の失敗点をちゃんと見抜いて、水が湧き出る土地を買ったりね。羨ましいですよ。ほかにも、ユーチューバーになろうかなって話してたら、後輩が先にユーチューバーになってて、移住した家を改修する様子なんかを動画にあげたりしてました。僕はYouTube用のグラフィックを作らされましたね。うまく利用されてますよね」と笑って話す。
将来は松崎町にもっと関わる生き方がしたい
松岡さんの理想は家族と暮らしながら松崎町という地にもっと関わる生き方だという。
今は、子供たちの教育費や生活費を山の生活だけでは捻出できないため、一年前から横浜の白楽で働いている。「僕は要領が悪いからこうして単身赴任で働いているけど、田舎暮らしに精を入れたい一方、都会も好きだし、どっちつかずな人間なんです。山奥暮らしを始めて13年、そろそろ土地に根ざして暮らしたいと思いますけどね」。
自家製の梅干し。南伊豆での暮らしは手仕事・肉体労働で忙しいという。
奥様手作りの梅干し。(写真提供:松岡俊介)
◇松崎町に移り住んだ理由がそもそも「不便に挑み人間力を付けること」だったことを考えれば、単身赴任で出稼ぎしている今の状況も、本人にとっては悲観することではないのかもしれない。聞くと、大木のような佇まいと落ち着いた声のトーンで返ってきた。「まったくどうってことない、と言ったら極端だけど、今は家族のためにも、このカメヤ食堂を全力で盛り上げていきますよ」。さて、
後編ではその不便だらけの山暮らしの様子をたっぷり語っていただく。