看板娘という名の愉悦 Vol.74
好きな酒を置いている。食事がことごとく美味しい。
浅草、向島、神楽坂、新橋……。これら、料亭と芸妓屋が集まる繁華街は「花街」と呼ばれ、大いに賑わってきた。四谷荒木町もそのひとつで、大正時代の最盛期には252名の芸妓が在籍していたという。
今回訪れたのは、そんな風情が残る街に佇む燻製酒場。最寄り駅の東京メトロ丸ノ内線・四谷三丁目駅から徒歩3分で到着した。
燻製酒場ゆえに煙る人。見事なネーミングセンスだ。

そして、近所に住んでいるというカウンターの女性客は、このたび結婚を機に慣れ親しんだ荒木町から離れるという。あら、おめでとうございます。
お相手の素性を尋ねると「ただのサラリーマンです」。そこへ、ママから「サラリーマンが一番偉いのよ。『ただの』なんて言わないの」と愛のダメ出し。
さて、1杯目は何をいただこうか。ママに聞くと「果実酒はいかが?」。

一番美味しく漬かったタイミングで出すため、現在のオススメはこの4種類だ。左下のチラシは「荒木町の流し しんたろう」と「歌う漫画家ちえ」の名コンビ。

「今は外でプラムを干してるの。あれは絶対に美味しいと思う」

というわけで、「年中みかん酒のソーダ割り」(700円)を注文した。
看板娘、登場

4カ月ほど前からこの店を手伝うようになった沙也佳さん(27歳)。
「元々はお客さんとしてよく来ていたんですが、怪我をしたスタッフの代理として働くようになりました」
生まれたのは確かに東京だが、父親の転勤に伴って岐阜、名古屋を転々とした末に、中学時代に東京に戻ってきたという。
お次は料理だ。

メニューを見ると、これまでの燻製料理の概念を超えたラインナップだ。

注文したのは日替わりの「海の幸プレート」(1580円)。

果実酒はみかんの旨味が凝縮されている。しかも、グイグイ飲めてしまう危険なお酒だった。そして、25度以下の低温で燻製する「冷燻」という手法で作られた海鮮の燻製も素晴らしい。
ママがよくわからないものの深そうなことを言う。
「サヨリを燻製にすると、ああこれは白身魚だってことを思い出させてくれるんだよね」
NEXT PAGE /さて、沙也佳さんの本業はネイリスト。小さい頃から子供用のマニキュアで自分の爪を塗っていたというから天職だろう。
「この間も『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスタンド、セックス・ピストルズを爪に描いてツイッターに上げたらめちゃめちゃバズりました」

ママは「さやちゃんは美人なのに気さくなのがいいところ。あと、私の爪も塗ってくれるから好き」と笑う。

「初出勤のとき、なかなかお座敷に行きたがらないから理由を尋ねると、恥ずかしそうに『靴下に穴が開いているんです』と告白した」という、心がやさしくスモークされるエピソードも聞けた。
そんな沙也佳さんが3年前からハマっているのは、なんとキックボクシング。格闘技が好きで、ずっと観ているうちに自分でもやりたくなったそうだ。

「そうそう、元WBA世界スーパーフェザー級チャンピオンの内山高志さんが、すぐ近くにジムを開いたんですよ。いつか、この店にも飲みに来てほしいな」
ところで、お座敷に吊るされている鱗のようなものがずっと気になっていた。ママに聞くと「ああ、あれは鯨のヒゲ。私、この店の前は別の場所で鯨料理のお店をやっていたんです」。

「店を始めて2カ月後に商業捕鯨が禁止になったの。鯨肉は仕入れられるけど、やっぱりなんとなく気まずかった(笑)」
こうして、燻製料理の店に鞍替えしたわけだが、今もあちこちに鯨時代の名残がある。

ちなみに、「煙人」というステキな店名もママが考案したんですか?
「いえ、あれは主人。
主人とは「電撃ネットワーク」のメンバー、ギュウゾウさん。

海の幸プレートを完食したので、軽くつまみたい。「サイドメニューの一番人気は、いぶりがっこ入りのポテサラ。新じゃがだから味は保証付きよ」とママ。300円の「ハーフ」にしてもらった。

沙也佳さんのネイリストあるあるを聞きながら、酒と肴をちびちびといただく。
「ネイルって2時間ぐらいかかるので、その間は話をするしかないんです。一番盛り上がるのは周りの不倫話。施術中に培った『聞くスキル』も、居酒屋の接客で役に立っているかもしれません(笑)」
こんな名店を切り盛りするママに敬意を表して、締めは泡盛を。「今帰仁城」を景気よくロックでいただこう。

いやあ、ごちそうさまでした。いつでも燻製気分に浸れるよう、お土産を購入。

迷った末に選んだのは「燻製マヨネーズ」。

チャーハン、パスタ、生野菜。結論からいうと、何と合わせても美味しかった。これはオススメですよ。
では、最後に読者へのメッセージを。

【取材協力】
煙人(エンジン)
住所:東京都新宿区荒木町3
電話番号:03-3353-1136
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石原たきび=取材・文