FUN! the TOKYO 2020
いよいよ来年に迫った東京オリンピック・パラリンピック。何かと “遊びざかり”な37.5歳は、 この一大イベントを思い切り楽しむべき。
甲子園で活躍した高校時代はAAA世界野球選手権の日本代表メンバーとしてもプレー。プロ入り後も侍ジャパン入りを経験し、2020年の東京オリンピック出場も目指す福岡ソフトバンクホークスの強打者・上林誠知選手(24歳)。
その少年時代はどのように育てられたのだろうか?
成長を見守ってきた父・光行さんに「子育て」を振り返ってもらった。
「強制せず、本人のやる気を待つ」
上林誠知選手は男3人兄弟の真ん中。3歳上の兄、4歳下の弟に挟まれて育った。野球を始めたのは小学1年生のとき。上林選手の父、光行さんは元高校球児。野球好きで、子供ができたら野球をやらせたい、という気持ちは昔から持っていた。
「実際になれるかなれないかは別にして、兄弟のうち誰かがプロ野球選手になったらいいな、と思ってはいましたね」。
ただ、だからといって上林選手も含めた3人の子供たちに野球を強制したわけではないという。

「何事も本人にやる気がなければ続かないと思っていたので、無理矢理に野球をやらせたりはしませんでした。実際、幼稚園時代の誠知はサッカー好きで、将来の夢も『サッカー選手になりたい』なんて書いたりしていたんですよ。
その後、友達の誘いもあって長男が近所の学童野球チームに入ることになり、上林選手もついていく形で入団。それが本格的な野球との出合いになった。
「最初はなんとなく長男についていったのだと思いますが、やっていくうちに野球が楽しくなったみたいで。運動全般、得意でしたから、投げる打つ走る、といろいろな要素がある野球が面白かったのかな」。
子供たちが念願の野球を始めてくれた父・光行さん。以降もいわゆる“お父さんコーチ”としてグラウンドに足を運んだり、撮影した映像を一緒に見て意見を交わす程度のことはしたが、本格的に教えたり、厳しく指導することはなかった。
「ある程度のところまでは好きにさせました。せっかく始めてくれた野球、嫌いになって辞められたらイヤだな、と思ったので。だから、感覚としては続けるサポートをした感じですね」。
NEXT PAGE /「ミスを叱らず、ひとつでも良い点があればホメる」
「子供頃、自分が言われてイヤだったことは言わないようにしよう、と。私も野球をしていたのですが、たいした選手ではなかったので、ヘタな選手の気持ちがよくわかるんです」。
過剰に叱られたり怒号を浴びるのは、子供としてはツラい。
「まあ、性格的に短気なところもあるので、自分を殺して叱らない場面もありましたけどね(笑)。教えすぎないのも、野球の指導は教えるのが上手な方たちに任せたほうがいいと思ったからです」。
そんな光行さんだが、ひとつだけ上林選手に命じたことがあった。もともと右投右打だった上林選手の左打者転向である。
「長男も誠知も足が速かったので、それを活かそうと2人とも左打ちをさせてみたんです」。

光行さんが上林選手の潜在能力に気づいたのは、そのときだった。
「誠知は初めての左打ちなのに、何の苦もなく違和感のないきれいなスイングで打てたんですよ。逆に長男は最初、手こずっていて。そのときに“もしかしたら誠知はレベルの高い世界でもやれる選手になれるかも”と感じました。まだ小さいですし、どうなるかはわからないので、誰にも言わず、あくまで自分の心の中にしまっておきましたが」。
野球に限らず、一流のアスリートは目にしたりイメージした肉体の動きを、自分で再現するのに長けているケースが多い。上林選手もその能力が高いのだろう。その後、光行さんは上林選手には何気なく、上の世界を目指すことを意識付けるようにした。
「よくお風呂で何か成し遂げた偉人の話や壁を乗り越えて成功した人の話をしてあげましたね」。
当時の光行さんは仕事で苦労も多く、自身の勉強という意味もあって、そういった本をよく読んでいた。そして、忙しい日々ではあったが、子供たちとコミュニケーションをとることは心がけていた。親子にとってお風呂は、そんな貴重な時間だった。

「場所を提供し、精神面のサポートを心がける」
やがて、上林選手は光行さんの見立て通り、実力をぐんぐん伸ばす。野球に魅了され、気がつけばチームの中心選手になっていた。
「誠知は好きなことには黙々と取り組むタイプ。“普段はクール”などと雑誌の記事に書かれるように口数は多くないので、積極的なタイプに見られないこともありますが、熱い気持ちは持っているんです」。
やがて訪れた中学進学。上林選手がさらに羽ばたくため、光行さんは中学で野球を続ける「場所選び」に直面する。
進学する中学の軟式野球部は、指導者の教員の方が忙しく、あまり熱心に活動していなかったんです。だから硬式のクラブチームのほうが力を伸ばせるかな、と思いました」。
そして選択肢に上がってきたのが、自宅近くの浦和シニア。
「いろいろな大会で実績を残していて、OBは高校野球の強豪校へも進んでいる。さらに元プロ野球選手の矢作公一さんがコーチでしたから、いろいろと勉強にもなるだろう、と」。
ところが、肝心の上林選手は、最初、乗り気ではなかったという。
「浦和シニアはいろいろな小学生チームの“エースで4番”が集まってくる。まだ子供でしたから、気後れする部分もあったのでしょう」。
それまでスパルタ指導もせず、基本的に「見守る」スタンスだった光行さん。上林選手には「プロになれるぞ」といった強い言葉もかけていない。上林選手は、まだ自分の実力に自信を持ちきれなかったのかもしれない。ここで光行さんは、初めて「親の強制力」を発動する。
「誰にも話してはいませんでしたが、その頃には誠知はプロに行ける可能性があると感じていました。だから中学でも上へのステップとして、それなりのレベルの中でプレーしたほうがいい。だから、半強制的に浦和シニアへ入団させました」。
初めは怖々、練習に参加した上林選手だが、プレーをしてみれば浦和シニアでも実力上位。本人の心配をよそに、順調に主力選手へと成長していった。ちなみに光行さんは、ここでも野球自体にはノータッチを貫き通す。気にかけたのは精神面だ。クラブチームは学校の部活動ではないため、日常生活までは深くタッチできない。
「中学生とはいえ精神的にまだ未熟な面もあります。悪い人間に引っ張られて脇道へそれることもあるかもしれない。年齢的にまだそこまで強くないと感じていたので、精神面のサポートを心がけました。また、『先輩は大事だが試合で遠慮してはいけない』『4番ならチームが作ってくれたチャンスを自分で返せるようになれ』など、野球選手としての振る舞いなども話していましたね。
「情報を集め、見せ、最後は本人の意思を尊重する」
上林選手が中学3年になる春、浦和シニアは全国大会で優勝を成し遂げる。もちろん、上林選手も4番打者として貢献した。そして高校選び。既に関係者の間では実力が知られていた上林選手には、多くの高校から誘いがあった。
光行さんには、上林選手の高校進学にあたっては、自身が東北地方出身ということもあり、「息子に甲子園での東北勢初優勝チームのメンバーになってもらいたい」という希望があった。上林選手もその気持ちに同意してくれたため、進学はまず東北地方の高校にすることに。そこから練習場の設備や寮などの環境、チームの指導方針などの情報を集め、いくつかの候補に絞る。
そして残った高校の中から、上林選手といっしょに練習を見学して光行さんが最も魅了されたのは、設備、環境が整い、チームの雰囲気も明るく、佐々木順一朗監督(当時 ※現・学法石川監督)の人間性にも感銘を受けた仙台育英だった。
「それで家族会議をして、誠知に“お父さんは仙台育英がいいと思うがどうだ?”と訊ねたんです。そしたら誠知も同じ印象を受けたようで“絶対、仙台育英でしょ!”と答えてくれて。妻も賛成ということで満場一致で決まりました」。
その後、上林選手は無事、仙台育英に進学。甲子園での活躍とプロ入りはご存じの通りである。

「高校での成長は佐々木監督のおかげです。小学校から中学まで、私はスパルタ教育をせず『好きなことを続ける』ことを第一に考えてきました。一方で、アクシデントや壁を乗り越える精神的な強さの部分は、佐々木監督がいろいろな本を薦めてくれたり話をしてくれたことで、身についたのだと思います」。
実は高校選びに関して、上林選手は光行さんと気持ちが一致したが、三男の高校進学のときには、まったく逆のことが起こった。
「三男は私の意見に反対して、薦めた高校とは別の高校に進学したんです。大丈夫かな、と思ったけど、最終的には甲子園にも出場することができて、大学でも野球を続けています。やっぱり本人の“ここでやりたい”という意思は大切なんだな、とあらためて感じました」。
任せるところは任せる、自分がやるべきことは徹底的にやる。本人の意思が第一だが、ある程度の年齢までは、要所要所で親が助言したり背中を押すべきところは押す。光行さんの「子育て」は、そんなメリハリとバランス感覚が絶妙な印象だ。
「野球をやりたいという気持ち、この高校でプレーしたいといった本人の意思を尊重することは大事です。ただ、高校選びもそうですが、子供の情報と意思だけでベストの判断するのは難しいこともある。だから親としては、ありとあらゆる情報を集めたうえで子供に伝え、実際に練習風景などを見せて、決めさせる。選択肢を与えたうえで、本人の決断を尊重するのがいいのではないかと思います」。
壁にぶち当たったとき、それが人任せで選んだり、強制的に選ばされた道でのことの場合、人のせいにする「逃げ」の気持ちが生まれる危惧がある。しかし、自分で選んだ道なら——乗り越える原動力にもなり得る。仮に力及ばず道を諦めるにしても、そこにしこりは残らず、自分なりの「納得」が生まれ、次の道にも向かいやすい。
上林選手もケガに悩まされたときもあったが、そのたび乗り越えて現在のステージに至った。その強さの背景には光行さんの教育方針も少なからず影響しているのだろう。今季は苦しい戦いが続く上林選手。だが、来年にはこの経験も糧にして、さらに成長した姿を見せてくれるはずだ。
上林誠知(うえばやしせいじ)選手

1995年生まれ、埼玉県さいたま市出身。外野手・右投左打。2013年のドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスから4巡目指名を受け入団。2年目の2015年に一軍デビュー。2017年には134試合出場して侍ジャパンにも選出。2018年には全試合に出場して打率.270、本塁打22、打点62の好成績をあげた。
田澤健一郎=取材・文