天才たちの40代●現代では“天才”とされる人たちは、どんな「オーシャンズ世代」を過ごしていたのか。時を遡り、アラフォーだった彼らの人生を切り取った。
フィンセント・ファン・ゴッホに40代はこなかった。
『ひまわり』などで知られるオランダの画家、ゴッホ。27歳で画家を志してからその命を絶つまで、わずか10年という短いアーティスト人生だった。
ゴッホと言えば、自らの耳を切り落とした「狂気の画家」のイメージが強いかもしれない。または生前に一枚しか絵が売れなかった「不遇の天才」か。
しかしインテリの一面もあり、特にその鮮烈な色彩感覚は情熱的なだけでなく、実に理論的だった。そして浮世絵に魅了され、この極東の小さな島国に恋い焦がれたという事実も忘れてはいけない。
ゴッホとはいったいどんな画家だったのか。オーシャンズ世代ど真ん中という若さで、何を思って死に至ったのか。東京で封切りされた「ゴッホ展」に合わせ、彼の人生に迫った。
NEXT PAGE /ゴッホが画家の道を決意するまで
祖父、父ともに牧師の家系で育ったゴッホは16歳のとき、画商として富をなしていた叔父を頼ってオランダの画廊に就職した。その働きぶりが認められ、ロンドン支店やパリ支店にも赴任。画商としての経験値を積み上げていった。
7年間の画商生活で触れた数々の絵画は、ゴッホ自身を芸術家の道へといざない、その運命を飲み込んでゆく。筆をとり、絵を描き始めたのもこの頃だった。
しかし、ゴッホもひとりの人間だ。ロンドン支店にいた頃、下宿先の娘に求婚するも、彼女にはすでに婚約者がおり、その申し出は足蹴にされてしまった。手痛い失恋を経験したゴッホは、苦悩のどん底に堕ちていった。
「何をやってもうまくいかない」──。
以降、勤務態度が悪化し、勤めていた画廊も解雇される始末。内向きで思慮深い性格、悪く言えば深く考えすぎてしまうゴッホの個性が端的に表れているが、その反動で「自分の心のよりどころは神の国以外にはない」と聖書にのめり込み、かつて背を向けた父親と同じ聖職者の道を歩もうと考えはじめる。
だが、それも長くは続かなかった。大学神学部の入試に失敗し、宣教師学校も途中で挫折。ベルギーで伝道師として活動を開始し、伝道委員会から試験的に伝道師として任命されるも、まもなく解雇されてしまう。貧しい人に自らの衣服を与えるなど、異常なまでの献身が不気味だというのがその理由だ。
幼い頃から癇癪持ちで、思い込みが激しかったゴッホは、大人になってもその性格は変わらなかった。何かに没頭するほど、その激情が空回りしてしまうのだ。どんなチャレンジも実を結ばず、ついにプロの画家になることを決意したのはフィンセント・ファン・ゴッホ、27歳のときだった。

ゴッホの初期作品『疲れ果てて』は、経済的理由もあってオランダの実家に戻っていた時代に描いた一枚である。当時、農民画などで有名なジャン=フランソワ・ミレーに強い影響を受けていたゴッホは、実際に目にした農民たちの労働や暮らしの様子を切りとるようになっていた。
当時はまだ歴史画が崇高なものとして評価され、農民の生活などを描いた風俗画は低俗なものと見なされていた。ゴッホは友人にあてた手紙にこう綴った。
「農民たちを描くということは、極めて弱い人間にはとりかかろうとすら思えない種類の仕事なんだ。僕は少なくともそれに挑戦した」。
一度は聖職者を志したゴッホ。その根っこは真面目で優しく、社会の底辺にいる人々の存在を決して忘れることはなかった。
NEXT PAGE /パリを席巻した「ジャポニズム」。浮世絵との運命の出合い

32歳になったゴッホは、画商として働いていた弟のテオを頼りにパリへと移り住んだ。テオは、ゴッホが死ぬまでの画家人生を経済的に援助し続けた、最大の支援者にして、最大の理解者だった。
そしてこの年、ゴッホにとって決定的な転機が訪れる。それが日本美術「ジャポニズム」との出合いである。

19世紀後半、花の都・パリは芸術で湧きたっていた。パリ万博が開催されると世界中から人やモノが集まってきた。長らく鎖国していた日本のアートが西洋に初めて紹介されたのもこの頃だった。
特に葛飾北斎などの浮世絵が持つ掟破りの構図や狂った遠近法に人々は熱狂。くっきりした輪郭線、立体感なく平坦に塗られた色面、色鮮やかな原色の対比など、伝統的な西洋画ではタブーとされているほとんどすべての手法が日本画では使われていた。これは西洋の人々には衝撃的だった。
旧態依然とした西洋画の殻を破ろうとしていた若い画家たちはまたたく間に虜になった。モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン……浮世絵は、印象派全体を活気づけたとも言われている。
ゴッホも例外ではない。いや、むしろゴッホほどジャポニズムに心酔した画家もいなかった。「取り憑かれた」と言ってもいい。貧しい生活のなかにあって、テオとともに500枚もの浮世絵を自前で収集したほどであった。
「芸術の未来は日本にある。私も日本に行きたい」。
ゴッホの日本への憧れは日増しに大きくなっていった。しかし、日本へ渡る経済力などあるはずもない。
描いても描いても絵は売れない。貧しい生活からは一向に抜け出せない。そんな八方塞がりのなか、ゴッホはいつしか日本というユートピアに少しでも近づくことで、芸術家としての魂が救われると信じ込むようになっていた。
NEXT PAGE /“フランスのなかの日本”を求めて南仏アルルへ

弟から資金援助を受け続けていたゴッホだったが、絵は依然として売れる気配すらなく、テオの金は絵の具と酒に変わってゆくだけだった。
ゴッホが描く絵の価値をもっとも理解し、もっとも高く評価していたテオ。経済的にも精神的にも兄を支え続けたが、それもそろそろ限界に差し掛かっていた。強い兄弟愛で繋がりながらも消耗したふたりは、いつしか互いを傷つけ合い、喧嘩の絶えない関係となっていた。
「このままでは自分自身だけでなく、テオをも追い詰めることになる」。
テオの足かせになることを恐れたゴッホは、2年間の同居生活にピリオドを打ち、南仏の街アルルへの移住を決めた。ゴッホ、34歳のときだった。
アルルを選んだ理由は、わずかながらパリよりも日本に距離的に近いこと、そしてアルルの風景がゴッホの空想世界の日本の姿と重なっていたことなどが挙げられる。初日に降った雪を見たゴッホは、「まるで日本人の画家たちが描いた冬景色のようだ」と感動をあらわにした。
すぐに画家仲間にもその感動を手紙に綴った。
「この土地の空気は澄んでいて、明るい色彩の印象は日本を思わせる。水が美しいエメラルド色の斑紋をなして、まるでクレポン(浮世絵の縮緬絵)に見るような豊かな青を風景に添えている」。

離ればなれにはなったが、ゴッホはテオに、毎日のように手紙を送り続けた。
「日本に行かないならどうするか。日本と同じようなところ、南(フランス)だろうか? 僕は新しい芸術は結局のところ、どうしたって南にあると思っている」。
「もっと陽気で幸せにならなければ、日本美術を研究することはできないだろう。日本美術は、因習にとらわれた教育や仕事から僕たちを解き放ち、自然へと回帰させてくれるんだ」。
ついに理想郷を見つけたゴッホ。この地でいよいよ才能を開花させてゆくが、鋭さを増す筆とは対称的に、彼の人生は着実に破滅へと歩を進めてゆくのであった。
後編へ続く。
[イベント詳細]
「ゴッホ展」
東京会場
期間:2019年10月11日(金)~2020年1月13日(月祝)
会場:上野の森美術館
開館時間:9:30~17:00(金、土曜20:00まで)
休館日:12月31日、1月1日
料金:一般 1800円 / 大学・専門学校・高校生 1600円 / 中・小学生1000円
兵庫会場
会期:2020年1月25日(土)~3月29日(日)
会場:兵庫県立美術館
開館時間:10:00~18:00(金、土曜20:00まで)
休館日:月(祝祭日の場合は開館、翌火休館)
料金:一般 1700円 / 大学生 1300円
/70歳以上 850円
/ 高校生以下無料
参考資料
原田マハ『ゴッホのあしあと 日本に憧れ続けた画家の生涯』(幻冬舎新書)
原田マハ『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)
『日経おとなのOFF』2019年6月号(日経BP)
ぎぎまき=文