もう、そんな季節がやってきた。
プロスポーツの世界では、シーズンが終わると、来シーズンに向けたチームの動向に注目が集まりだす。
スター選手の争奪戦が繰り広げられ、その一方で選手が去っていく様子は、ストーブを必要とする季節になぞらえて「ストーブリーグ」と呼ばれるほど加熱し、「誰がどのチームにいるか、よくわからない」という声も聞かれるほど、目まぐるしくチームの顔ぶれが変わる。そんなストーブリーグの季節がやってきたのだ。
そんな時代にあって、長いプロ生活を1つのチームで過ごした男がいる。元サッカー日本代表の鈴木啓太氏(38歳)だ。
鈴木は、高校卒業後の2000年に浦和レッドダイヤモンズ(以下、浦和レッズ)に加入してから、2015年に引退を発表するまでの16年間を、浦和一筋で過ごした稀有な選手だ。当然、サポーターからの信頼は厚く、引退してから4年が経った今でも、浦和の居酒屋に顔を出すと、店主がビールを出してご馳走してくれるという。
「すごく嬉しいですよね。僕より上手な選手はたくさんいたのに、いまでもファン・サポーターの方々に可愛がってもらえるんですから。不思議ですね」。
柔和な表情で語り、屈託無い笑顔を見せる姿は、かつて激しいプレーでスタジアムを沸かせた選手と同一人物とは思えぬほどだ。
下手くそでも未来は作ることができる

自らを下手だったと語る鈴木だが、下手な選手がなぜ日本代表まで上り詰めることができたのか。鈴木が浦和レッズに入団した直後のエピソードが面白いので紹介しよう。
鈴木は、浦和レッズ加入時の入団会見の際に、「日本代表になる」ことを高らかに宣言した。そして、加入してから少し経ったある日のこと。練習後に鈴木がマッサージをしていると、となりにいた福田正博氏からこう質問された。
「お前どういう選手になりたいんだ?」。
福田氏は、「ミスターレッズ」と呼ばれ、当時エースとして絶大な人気を誇った選手だった。そんな選手に対して、鈴木は躊躇することなくこう言った。
「僕は日本代表になります」。
そのときは半ば呆れたような表情を見せた福田氏だったが、鈴木はチーム内で地道な努力を重ね、2006年より日本代表の中心選手として活躍するようになった。2008年に福田氏が浦和レッズのコーチとして戻ってきたときには、「お前、本当に日本代表になったな」と言って祝福されたそうだ。
「福田さんは覚えてくれていたんですよ。多分、ギャップが大きすぎたんでしょうね。こんなに下手くそな奴が、“日本代表になる”なんてって言ったのが強烈だったようです。
下手くそだからこその最強処世術

では、なぜ“下手くそ”だった鈴木が日本代表にまで上り詰めることができたのだろうか。また、なぜ16年間もプロサッカー選手として生き残ることができたのだろうか。
確かに、鈴木が言うように、当時の浦和レッズには、小野伸二や長谷部誠ら、その時代を彩るスーパースターたちがたくさん在籍していた。そんなスター軍団たちによる厳しい生存競争のなかで、16年間を生き抜いた秘訣はどこにあったのか。その点を鈴木に聞くと、まるで当たり前のことのようにこう振り返った。
「下手だったから良かったんです。下手だから誰よりも走らないといけなかったし、自分が動くことによって人を輝かせることが、自分が生きる道になったんでしょうね」。
確かにチームには必ず、外すことができない絶対的な選手がいる。そんな重要なポジションにいる選手たちに認めてもらうこと。これこそが鈴木にとっては大切なことだった。「アイツがいれば活躍できる」――そう思わせ、彼らがプレーしやすい状況を作ることこそが鈴木の存在価値になった。“下手くそ”だった鈴木にとって最強の処世術は、まさに「金魚のフン」作戦だったのだ。
“下手くそ”が上手くなるとき
自分を“下手くそ”と表現する鈴木氏が、格段にサッカーが上手くなったと感じた時期がある。それは、2012年から引退する2015年までの4年間だった。2012年といえば、ミハイロ・ペトロビッチ氏が浦和レッズの監督に就任した年だった。
2011年の鈴木は、すでにプロになって10年以上が経過し、日本代表からも遠ざかっていた時期。キャプテンという重責を背負い、極度のプレッシャーに晒されるなか、心と体のバランスが崩れ、何のためにサッカーをやっているのかわからなくなってしまっていた。チームの成績も伸び悩み、引退すら考えていた時期だった。
「子供の頃は楽しかったサッカーが、楽しく感じなくなってしまったんです。プロになってからは、楽しむことよりも、勝つためとか、結果に対する意識が強くなっていました」。
そんなときに浦和レッズの監督に就任したのが、名将ミハイロ・ペトロビッチ氏(現コンサドーレ札幌監督・以下、ミシャ)だった。就任したミシャは、選手たちに対して、開口一番にこう言ったそうだ。
「お前ら、楽しそうにサッカーをやってないじゃないか。勝敗の責任は俺がとるから、お前たちはサッカーを楽しんでくれ」。
衝撃を受けた鈴木だったが、その後に、ミシャからかけられた最初の言葉を、鈴木は今も忘れていない。
「“お前はこれからもっと上手くなる”って言われたんですよ。すでに30歳を超えていたんですよ? 最初は『そんなわけないよ』って思うじゃないですか。でもミシャは“俺を信じてついてこい”って言ってくれて。そうしたら、本当にサッカーが上手くなっていくし、なによりも上手くなるって楽しいって思ってプレーできるようになったんです」。
鈴木の成長秘話が僕らに教えてくれるもの

2015年に引退した鈴木氏は、アスリートの腸内環境の解析を手掛けるスタートアップ「AuB株式会社」を設立。500人以上のトップアスリートの便を集めて腸内細菌の研究を進めるとともに、コンディショニングサポート事業やフードテック事業などを展開している。
つい先日、人の健康に効果的な腸内細菌を摂取できるフードテック商品の第一弾をクラウドファンディングを活用して先行予約を行ったところ、1000人以上の支援者を集め、906%の目標達成率を獲得するなど、その成長は止まることを知らない。
引退後も新しい挑戦をし、成長を続ける鈴木啓太。僕らにも子供時代があった。あの頃はいろんなことに興味を持ち、出来ないことにたくさんトライしてきた。算数の問題だって、逆上がりだって、最初は出来なかったことが、何かのきっかけで出来るようになったときは、きっと楽しいと感じたはずだ。それが大人になって、年齢を重ねるうちに、成長が鈍化するどころか、自分の成長を感じる機会も少なくなってきた。
だが、鈴木は、「楽しむ」ことによって、子供の頃に感じた成長を実感することができたと言うのだ。鈴木が成長し始めた30歳といえば、アスリートの世界ではすでに体力的なピークは超え、キャリアの晩年に差し掛かる時期だ。サラリーマンでいえば、定年間際といっても過言ではないだろう。そんな時期に、たった一人の男の言葉によって、さらなる成長を遂げた鈴木の成長秘話は、僕らに勇気を与えてくれる。人間の持つ能力は、大人の秘めたポテンシャルは、まだまだ捨てたものじゃないと教えてくれるのだ。

鈴木 啓太(すずき けいた)プロフィール
1981年生まれ。静岡県出身。2000年、東海大翔洋高から当時J2に所属していた浦和レッズに加入。2002年にはレギュラーに定着。その後は2006年、2007年と2年連続でJリーグベストイレブンに選出されるなど、中心選手としてチームの黄金時代を築き上げた。名将、イビチャ・オシムに見出され、2006年には日本代表入り。オシム・ジャパンの中核として活躍した。
瀬川泰祐=取材・文・写真