>連載「37.5歳の人生スナップ」を読む
「今まで占った数万人の中で1、2を争う強運の持ち主。歩くパワースポット。
そう言って朗らかに笑みを浮かべるのは、湘南乃風のメンバーでミュージシャンのSHOCK EYE(ショックアイ)さんだ。湘南乃風といえば、2006年の『純恋歌』や、続く2007年の『睡蓮花』が大ヒットし、一躍日本のミュージックシーンに躍り出たレゲエグループだ。
アーティストとして活躍し続けてきたSHOCK EYEさんが、「歩くパワースポット」と呼ばれるようになったのは、ここ2年ほどのこと。前述の占い結果を受け、「SHOCK EYEさんを待ち受けにすると幸運が訪れる」という都市伝説がまことしやかに囁かれるようになり、芸能人がテレビでその話題に触れたことで一気に注目されるようになった。
今やどこに行っても「一緒に写真を撮ってほしい」というリクエストは絶えない。さらには2冊目となる著作『歩くパワースポットと呼ばれた僕の大切にしている運気アップの習慣』(講談社)を今春発表するなど、40代にして新たなブレイクを果たしている。
そんなSHOCK EYEさんの強運人生はどのように形作られたのか、振り返ってもらった。
「音楽しかなかった」多感な思春期

「最初にターンテーブルを買ったのが、16、7歳の頃。でも当時はプロになりたいなんて思っていなくて、DJをやったら友達が喜んでくれるし、モテるんじゃないか?って(笑)。そんな不純な動機でしたね」。
当時流行していたヒップホップを中心に、友人との遊びの延長で音楽を始めた。カルチャーを含め、ヒップホップの魅力にハマっていったという。
「実は僕、進学校からドロップアウトしちゃったんですね。それで“不良”とか“喧嘩が強い”ことが良しとされている場所に流れていくんだけど、そういう世界にも辟易としている時期だった。自分はそういうんじゃないなって」。
居場所を求めるなかで見つけた音楽は、SHOCK EYEさんにとっての希望だったという。音楽を通じてたくさんの仲間と出会った。さらに友人に連れて行かれたジャマイカでの短期留学でレゲエミュージックを知り、衝撃を受けたという。以来、レゲエにのめり込んでいった。

「とはいえDJである限りはひとりでの活動がメインで、寂しいじゃないですか。それで友人のグループに入ることにしたんです」。
グループに加入したことで初めてボーカルとして歌うことになったが、最初は単なる内輪ウケのものでしかなく、まだまだプロを目指すという自覚も芽生えていなかった。
「ひどいもんでしたよ、一応自分で歌詞も書いてたんですけど、クラブで歌っても全然盛り上がらない。近しい人間だけですよね、わー!って言ってくれるのは。
10代後半から20代前半、日雇いの仕事をしながら、仲間と集まり音楽を作る。この曖昧で自由な時間が永遠に続くような気がしていた。
「音楽いつまで続けるの?」彼女に言われた重たいひと言

ターンテーブルを手にした10代から、グループとしてイベントやクラブに顔を出すなど地道に活動ができるようになった20代前半。しかしSHOCK EYEさんのなかには焦りも生まれ始めていた。
「ライバルがどんどん大きなイベントに呼ばれて、メンバーも僕より本気で音楽をやっていた。でも僕はほかの仕事を辞めて音楽活動に専念する自信がなかったんです」。
自分には音楽しかない、そう感じていた気持ちに嘘はないが、音楽一本で挑戦することは怖かった。徐々に仲間とも温度差が生まれ始め、そんな自分が嫌で無為に時間を過ごすことも増えたという。どこかで仕事を言い訳にして、音楽に本気で向き合うことを躊躇っていた。
「仕事があるから、ってイベントの誘いを断ったりしていた。
仕事も音楽も中途半端なまま、仲間との差は開いていく。そこで流れを変えたのは、現在の妻である彼女の言葉だった。
「僕が24歳のときに出会って、四畳半で一緒に暮らしていました。あるとき彼女が『音楽はいつまで続けるの?』と聞いてきたんです。お金もなかったし、僕は中途半端な生活を続けていて喧嘩がすごく増えていた時期でした。それで『26歳までにデビューできなかったらやめる』と約束したんです」。
そう決意できたのは、彼女の後押しもあったからだった。
「彼女が『もしダメだったらふたりでなんでもやればいいじゃん。一緒に仕事してさ』って言ってくれた。
一生懸命やって、もしダメだったらダメで彼女とささやかだけど家庭を持つ。それもそれで幸せな選択なんじゃないか。彼女の言葉によって失敗は怖いものではなくなった。
「結局、ずっと損得勘定で考えていたから僕はダメだったんです。めちゃくちゃ頑張って叶わなかったらどうしよう、何にもならなかったら損するだけだって。でも損得なんて自分の気持ち次第。どう転んでも得だと思える生き方をすればいい」。
26歳まで1年半。SHOCK EYEさんは完全にほかの仕事を辞め、音楽制作に専念することを決めた。バイトを掛け持ちしてまで応援してくれる彼女のためにも結果を残したい。
「これが自分にとって最後のチャンスだと思いました」。
SHOCK EYEさんの挑戦の行方は後編で。

藤野ゆり=文 小島マサヒロ=写真